
原爆投下直後白島線電車から必死の脱出
常磐橋(老婆の背に上がり飛び降りて)を渡らんとするも饒津神社や河合塾(現在の)方面も炎。縮景園の火の粉の旋風。せめぎ合い川へとぶ人のある橋で立ち往生した。その前に縮景園の前の道で立ち木が燃え落ちるので兵隊に強く押し戻されて栄橋方面への希望を諦らめ後帰りして白島線線路ぞいに常磐橋へ後戻りした。脱出した電車は燃えていた。車掌は黒焦になっていたとのこと。戦後久しく電車は残っていたが西側第五司団兵器庫の石垣の方へ、約三米ずれて、戦後久しくあった。平成七年十月現在この電車の生存者は私一人とか(「電鉄KK」の記録から)
- 絵に描かれた情景の日時:8月6日投下直後
絵に描かれた場所:爆心地からの距離1,300m/白島線縮景園前(上流川町、現在の幟町)
作 者:山本 節子(被爆当時14歳、絵を描いたとき43歳)