資金難
被爆によって課税すべき人も物も失われ、税収の激減した広島市にとって、国からの特別な援助が望まれていた。浜井信三市長は各省庁を回り、補助金の取り付けや国有地の払い下げを陳情したが、戦災都市は広島だけではないとの理由で拒絶されていた。
1946(昭和21)年6月に市復興局が本格的な広島復興に要する費用を試算しているが、これによると土木事業費として街路費9億3,758億円余円をはじめとする計20億4,300万円、これに各種文化施設を加えると22億7,700万円、昭和21年度当初予算の237倍という膨大な費用になった。ちなみに当初予算額が昭和21年度961万4,114円、22年度4,725万2,891円という時代である。
 GHQ(General Headquarter、連合国最高司令官総司令部)のマッカーサー元帥への意見書提出や国への度重なる陳情、外国への支援を要請することも提案されたが、復興は「気は焦れども先へ進まず」の状態が続いた。しかし、このような状況に手をこまねいていた訳ではなく、さまざまな努力が続けられ、この熱意が「広島平和記念都市建設法」という特別立法制定へ結実していった。
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