平和大通り
この新たに出現した通りは、平和大通、百メートル道路、都市計画道路比治山庚午線という3つの名前を持っている。東は鶴見町から西の福島町までの3,570mは、その幅員が100mであったことから百メートル道路と呼ばれた。そして、もうひとつの名・平和大通りは1951(昭和26)年11月に公募で名づけられた。
今では市民の憩いの空間となっている平和大通りだが、計画当時は市民からとまどいの声が相次いだ。作家・大田洋子は「夕凪の街と人と-一九五三年の実態-」の中で「道路というよりも、全体に荒れ果てた広野に近かった」と登場人物に言わしめた。このような心情は少なからず市民の中にあった。そのような中、渡辺忠雄が通路の半分を市営住宅にするという公約をかかげて初当選した。しかし、公約は実現されず、代わりに渡辺市長は供木運動を展開した。
昭和20年代後半に入ってようやく道路としての形を整え始めた平和大通りは、1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にわたって展開された大規模な供木運動によって、さらにその景観を一変する。県下一円に12万本の樹木の提供を呼びかけ、それに多くの県民が応え、喬木運動は盛り上がった。山間の村々から山取りした木々などもあり、それらが公園道路を表情豊かにしている。
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大田洋子「夕凪の街と人と-一九五三年の実態-」より
「なんの用があって作ったか知りませんが、あの広い幅をもった、百メーター道路を見てごらんなさい。昼なお暗いほど、雑草にうずもれて、人通りもろくにありはしません。(略)ここは公園にするからどいてくれ、百メーター道にするからどいてくれと云って追いはらったんですからね」
『大田洋子集 第3巻 夕凪の街と人と』 発行/日本図書センター 2001年復刻発行