1962年のキューバ・ミサイル危機は、全面戦争の瀬戸際、つまり世界が破滅寸前にまでいった世界的事件であった。これを契機に米ソは、緊張緩和へと踏み出すこととなった。1963年の部分的核実験禁止条約や、米ソのホットラインの設置は、緊張緩和への出発点を意味した。
 しかし、一方で戦略兵器の開発競争はとどまるところを知らなかった。米国は戦略兵器のみならず通常兵力の強化にも力を入れ、他方、ソ連もICBMや原子力潜水艦の開発・建造につとめた。
 その後、米国におけるベトナム戦による過度の出費、ソ連における慢性的経済停滞と対米戦略的対等性の達成、さらに中ソ対立の激化と米中接近など、諸処の事情から、1968年核拡散防止条約が調印されたのをはじめとして、多くの軍縮管理条約や協定が締結されたが、質的な軍拡競争の歯止めにはならなかった。具体的には、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約や第1次戦略兵器制限交渉(SALT1)の調印、米ソ核戦争防止協定の調印などがあげられる。
 しかし1979年のソ連のアフガニスタン軍事介入や、米ソ両国の戦略核ミサイルの配備、米国の巡航ミサイルのヨーロッパ配備など、米ソ核戦争勃発の恐れは高まっていった。1981年米ソ間で欧州中距離核戦力(INF)削減交渉が始まり、1982年には米ソの戦略兵器削減交渉(START)が開始されたが、これらの交渉には顕著な進展は見られなかったのである。
 1985年ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカを打ち出したことから、米ソ両国は軍縮交渉を再開し、1987年、中・短射程ミサイル廃棄条約(INF全廃条約)に調印した。このINF全廃条約は、米ソの核兵器全体の量からするとその数パーセントを廃絶するにすぎないが、歴史上初めての核兵器の削減条約であり、画期的な出来事であった。
 ゴルバチョフ書記長は1988年のワルシャワ条約機構加盟国首脳会議でも、諸国民の独立と主権の尊重、内政不干渉の原則を改めて確認すると表明し、ソ連をはじめ東欧諸国では共産主義国家の解体が始まったのである。そして1989年には、東西対立の象徴であった「ベルリンの壁」も解放された。
 このような歴史的背景の中で、1989年ブッシュ米大統領とゴルバチョフ書記長が米ソ首脳会談を開き、第2次世界大戦後、世界政治を支配してきた東西冷戦構造の終結を宣言すると同時に、米ソ関係が新時代に入ったことを確認した。翌1990年北大西洋条約機構(NATO)、ワルシャワ条約機構加盟の22か国が東西冷戦構造の終了を宣言した。以降、1991年ごろにかけて東欧諸国の民主化やソ連邦解体、東西ドイツの統一など社会主義体制の崩壊が進み、冷戦構造は崩壊したのである。