被爆体験記
死に損なった学年


本財団被爆体験証言者
葉佐井 博巳


プロフィール
[はさい ひろみ]
1931年広島で生まれる。14歳の時広島原爆にあい、被爆の悲惨さを知る。 広島大学工学部を卒業後、同大学で原子核物理学を専攻。 80年代から広島原爆の線量再評価を行い、DS86に変わるDS02を日米共同で完成した。 2007年は「核攻撃を受けた時の被害想定」の専門部会長を引き受ける。
 


何故今になって証言か
被爆当時、私は広島市内にある中学校の2年生でした。多くの犠牲者を出した市内中学校の中で唯一被爆から逃れて、ほぼ全員が生き残る運命となった学年です。原爆投下の1週間前に我々学年は学徒動員で軍需工場勤務となりました。市内在住者は郊外の工場へ、市内の工場へは郊外に住むものが割り当てられました。その市内の工場は当日休みになっていたことが、運命を決めました。生き残った我々は、犠牲となった生徒達に対し申し訳ないとの気持ちからか、原爆のことをお互いあまり語らないできました。

しかし直接被爆体験者が少なくなる中で、我々にも被爆の現状を語り継ぐ義務があると思い、私は、昨年から入市被爆者として証言活動を始めました。

当時の環境と被爆体験
私は満州事変の始まった年に生まれ、富国強兵のスローガンのもと、国のためなら、命さえ捨てる教育を受けてきました。
しかし一度も戦場を経験した事の無い者として、原爆被爆の現状は、あまりにも強烈でした。

8月6日の体験
朝早く市内の家を出て、爆心から15キロの工場で準備体操をしていました。真夏の太陽の下でも驚くような光を感じ、思わず上空を見渡しましたが、そこには、ちぎれ雲だけが広島の方向からどんどん飛んできます。それが頭上に来たとき周囲のガラスが、がたがたと鳴り始めました。これが私の被爆体験です。


被爆者との出会い
昼前になると、歩いて避難してきた被災者に出会いました。彼らに何が起きたのかと聞くと、「私の家に直撃弾が落ちた」「殺人光線だ」「新型爆弾だ」と想像できない答えが返ってきます。

午後になると、トラックに乗せられた負傷者が次々と運ばれてきました。火傷のため皮膚が溶けて痛々しい姿をみて、思わず支えるのを躊躇したのを覚えています。手を離すと彼の皮膚が私の手に着いてきました。

火傷をした人に水を飲ますと死ぬると教えられ、水を欲しがる彼らに、飲ますことも出来なかったことが悔やまれます。彼らは翌朝には殆どの人が息を引き取っていました。

真っ赤に染まった広島の空を眺め、家族の安否を気遣いながら、一夜を明かしました。

翌日の広島市
翌日帰宅のため市内にはいるとそこは廃墟と化していました。そこには、多くの死体が転げています。川には馬や牛と共に人形のような死体が浮かんでいます。まさに広島市は死体の横たわる墓場と化していました。死の世界を彷徨っている明日の自分を見ている感じでした。これらの死体はやがて何段にも積み重ねられて河原で一気に荼毘に付されました。その時の臭いは今でも忘れられません。

家族との出会い
家にいた母と4才の妹は、たまたま家の中にいて熱線から免れ、無事で再会出来ましたが、周囲の状況から、素直には喜べませんでした。直前まで妹と一緒に遊んでいた近所の5才の子は、屋外にいたため即死しました。この女の子には中学生の兄が2人いましたが、下の兄は建物疎開に行き行方不明のままです。上の兄は帰ってはきましたが、全身火傷で、苦しみました。その彼が2日目には軍歌「海ゆかば、水漬く屍、山ゆかば…」と歌い死んでいきました。天皇陛下の為ならこの身はどうなっても悔いません、と言う歌です。その最後を見た私は「これぞ男子の手本である、私もこのようにして死にたい」、と覚悟を新たにしました。これが戦争です。

終戦を迎えて
国民に対し、「1人になるまで戦え」といった日本軍は、10日後に降伏しました。何故もっと早く戦争を止めなかったのでしょうか。

その後の日本は戦争を放棄し、争いのない平和な世界を目指すことを始めました。ひたすら戦争に勝つことを信じて死んだ彼らに、今の日本の姿をひと目見せてあげたかったです。


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