平成23年追悼平和祈念館企画展
しまってはいけない記憶 ―さし出された救いの手―
■期間―平成23年1月2日 〜 12月28日
■場所―追悼平和祈念館 地下1階 情報展示コーナー
■入場―無料
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、被爆の実相を伝えるため、毎年テーマを定めて企画展を開催し、被爆体験記や追悼記などを展示しています。
  今回は「さし出された救いの手」と題し、被爆の惨状(さんじょう)の中で助け合う人々の様子を紹介しています。
  昭和20年8月6日に投下された原子爆弾により、広島の街は一瞬にして壊滅的な被害を受けました。 瓦礫(がれき)の下で助けを求める人、 瀕死(ひんし)の状態で逃げ(まど)う人、 皆我が身のことで精一杯でした。 こうした中でも家族や友人、あるいは見も知らぬ人のために必死で救出活動をする人や、貴重な食べ物・衣服を提供する人、寝食を忘れて看護に(たずさ)わる人々がいました。 火の迫る中での救出、思いもかけぬ親切、必死の看護。 苦しい時にさし出された救いの手は、希望を失いかけた被災者に生き抜く勇気を与えました。
  今回、展示している被爆体験記の中から、倉本豊子(くらもと とよこ)さんと松尾清子(まつお きよこ)さんの体験記(抜粋)をご紹介します。
倉本さんは当時19歳でした。崩れた壁の下敷きになって動けない祖母を救うため、家の前を通りかかる人に助けを求めます。
・・・・・・私は表に出て「おばあちゃんを助けて」と言って、その中の男性の手にぶら下がりました。 そうしたらすごい顔をして私の手を振り払うのです。 それで次の男性の手へ「助けてください」と言ってぶら下がったのです。 その人は「どこなんだ」と言って、家に入ってくれたのです。 その人と私とで壁を持ち上げ、おばあさんはやっと足を引き抜くことができました。
  妹はと思って見れば、何かが飛んで来たのでしょうか。 ちょうど胸の上辺りと右手首を切っているのです。 血がどんどん出ていて、「もう死ぬけぇ。もうだめだから。あんたら逃げて」と言うのです。 私は「あんた、そんなこと言いなさんな。とにかく逃げないとだめよ」と言って、連れて逃げました。・・・・・・
建物の下敷きになった人を助け出す兵士たち。救援隊の中にも放射線の影響で倒れたり亡くなる人が出た。
「市民が描いた原爆の絵」 田島武雄(たじま たけお)さん作
松尾さんは当時6歳で、友達と遊んでいる時に被爆しました。何が起きたのかもわからないまま、ただ大人の人について避難しました。
・・・・・・随分長い時間、逃げ回っていたように思えます。 ようやく着いた場所は、見慣れない神社でした。 一緒に逃げてきた友達の顔を見ると、ススで真っ黒、別人の様でした。 私も同じような様相をしていたに違いありません。 口の中にまで入ったススで気持ち悪く、足もケガをしていました。 そこに追い打ちをかけるように黒い雨が降ってきたので、近くの防空壕に移動しました。 防空壕の中も負傷者でいっぱいで、既に息絶えている者も多くいました。 国民学校一年生の私たちは、防空壕の中で恐怖と雨にぬれた寒さに震え、泣くばかりでした。 そんな私たちの様子を気の毒に思ってくれたのでしょうか、見知らぬ母娘が「泣かないのよ。大丈夫、大丈夫」と優しく声を掛けてくれ、自分たちの荷物から肌着を出し、私たちに着せてくれました。・・・・・・
体験記の続きは、館内の企画展会場もしくは体験記閲覧室で読むことができます。 また、当館のホームページ>>にも掲載しています。
  会場では、体験記とともに、被爆者が描いた絵や衣服などの被爆資料も展示しています。 また、体験記を、関連する写真や絵を用いた映像と音声で紹介し、被爆の悲惨さを訴えています。 この映像については、過去の企画展で制作したものも含め、体験記閲覧室で観ることもできます。
  被爆者の「こころ」と「ことば」にふれてください。
企画展会場の様子

(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館)

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