被爆体験記
原子野を生きのびて
本財団被爆体験証言者 兒玉 光雄
プロフィール
〔こだま みつお〕

1932年9月、広島市荒神町(こうじんまち)生まれ。 比治山(ひじやま)国民学校卒業。 旧制広島一中1年生の時被爆、急性原爆症克服後は概ね健康。 広島大学卒業後、郷里の役場に就職。農林省国際農友会派遣スイス留学を経て帰国後、牧場経営。 西武流通グループ会社に転職して60歳の時直腸癌手術し退職。以後18回の癌手術を繰り返す。

倒壊校舎からの脱出
私は県立広島第一中学校(広島一中)1年生の時、爆心地から850メートル余の教室内で被爆しました。 古い木造校舎は瞬時に崩壊し、建物疎開(たてものそかい)の交代要員として待機・自習していた1年生の約半数150名余は倒壊校舎の下敷きになりました。
  私は奇跡的に脱出が出来、校舎の下から救いを求める友を数人救出しましたが、まだ多くの友が身動きできず助けを求めていました。 頭を割られたり圧死(あっし)した友もいます。 薄闇がはれてくると、校庭のプールサイドに多くの人影が見えます。 救助応援を求めにプールに行くと、それは市役所裏で建物疎開の作業に従事していた半数の1年生が、火傷を負った悲惨な姿でした。
  水を求めてプールにやって来た多くの負傷者で、水は茶色に(にご)っていました。 重傷者の姿に驚き救援を(あきら)め、校舎に戻ると火が迫ってきました。 煙の匂いを感じたのか、脱出できないと感じた友達は、君が代や校歌を合唱し始めました。 助けることが出来ず、生きたまま焼かれていった友達の声は、生涯私の耳に焼き付いて離れません。

人間檻褸(らんる)の行列と逃避行
煙に負われ逃げ惑う内に、日赤(にっせき)病院前の大通りに出ました。 そこでは火傷をして手を前に垂らした幽霊の様な行列に出会いました。 私もその列に加わり、「飛出した左眼」を(てのひら)に受けてよろよろと歩いて行く青年を見守るように進む内、 急に私の足を(つか)む婦人の手を無情にも払いのけました。 倒れた塀に腰まで挟まれて助けを求めているのです。 横を行く負傷した兵隊の群れも知らん顔で通り過ぎました。 何度も嘔吐(おうと)をくり返しながら、気力を振り絞って御幸橋(みゆきばし)を渡ると、 旧宇品(うじな)線の丹那(たんな)駅付近で失神し、気がついたときは民家に担ぎ込まれていました。 夕方になり宇品線、芸備(げいび)線を利用して深夜近くになって疎開している戸坂(へさか)の自宅に辿(たど)り着きました。
  戸坂駅から見る広島方面の天空は真っ赤に燃え盛り、学校の方に向って置き去りにしてきた友に合掌(がっしょう)して()び続けました。

死の淵を彷徨(さまよ)って
8月15日の敗戦の詔勅(しょうちょく)は高熱にうなされながら聞きました。 その頃は頭髪が(ほとん)ど抜け落ち、歯茎(はぐき)等の出血が止りません。 ピカドンには毒があるとの噂から、母は十薬(じゅうやく)(ドクダミ)を(せん)じたり、 生葉を蒸焼きして化膿(かのう)した外傷に貼ってくれました。 8月20日頃から熱は42度に達し、全身に紫斑(しはん)も出て、医者も治療法が分からず近づかなくなりました。 しかし9月になると不思議に熱も下がり始めました。

生き残った友を襲ったガン
当時の同級生300余名の内、急性原爆症を克服して復学した者は、19名でした。
  しかし、高校2年の時止血不全(しけつふぜん)で1名が亡くなり、 大学の卒業を前にして1名が白血病(はっけつびょう)で亡くなりました。 それ以降、年齢を重ねていくにつれて、死亡した友の病名は皆、(がん)です。 既に16名が亡くなり、今では私を含め3名が重複癌と闘いながら生きています。

私の被爆による「異常染色体(せんしょくたい)」 ( (*1))
若年から癌に見舞われた友の中にあって、私は60歳からの晩発生(ばんはつせい)の癌でした。 最初は直腸癌、3年後の胃癌も転移でなく原発性(げんぱつせい)の癌と言われ、 70歳の甲状腺(こうじょうせん)癌も転移でなく、原爆特有の重複癌と言われました。 皮膚癌は65歳から16箇所の手術を繰り返しています。
  放射線影響研究所の専門家からは、私の場合、至近距離被爆のため、細胞100個中に102個の
転座(てんざ)とい( (*2))う染色体の異常が見られ、 このことからガンマ線4.6グレイの被曝線量と告げられました。 ガンマ線4グレイが半致死量(2分の1の死亡率)だそうです。
異常な染色体
兒玉さんから採取された染色体(色素で染色されたもの)の写真。 下の正常な染色体と比べ、上の写真では、矢印の付いた染色体で、色が変化しているつなぎ部分が10ヵ所見られ、5個の転座が起きたと計算される。
正常な染色体
語り継ぎたいこと
至近距離被爆者は大量の放射線によって、身体中の染色体を切断されました。 異常染色体は復元の段階で間違った形で(つな)がったり、 欠損(けっそん)したままの染色体は一生涯治らないと、私は専門家から告げられました。 その異常染色体は癌になりやすいとも教えられました。
  放射線の怖さを身をもって体験した私は、「核と人類は共存し得ない」ということを訴え続けていくことが、無念の死を遂げた友に代わり、生かされている私の使命だと心得て居ます。
(*1) 染色体 ― 遺伝情報を伝えるDNAなどで構成される生体物質。
(*2) 転座 ― 切断された染色体の一部が別の染色体に繋がってしまうこと。1個の転座で2本の異常染色体ができる。
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