倒壊校舎からの脱出
私は県立広島第一中学校(広島一中)1年生の時、爆心地から850メートル余の教室内で被爆しました。
古い木造校舎は瞬時に崩壊し、建物疎開の交代要員として待機・自習していた1年生の約半数150名余は倒壊校舎の下敷きになりました。
私は奇跡的に脱出が出来、校舎の下から救いを求める友を数人救出しましたが、まだ多くの友が身動きできず助けを求めていました。
頭を割られたり圧死した友もいます。
薄闇がはれてくると、校庭のプールサイドに多くの人影が見えます。
救助応援を求めにプールに行くと、それは市役所裏で建物疎開の作業に従事していた半数の1年生が、火傷を負った悲惨な姿でした。
水を求めてプールにやって来た多くの負傷者で、水は茶色に濁っていました。
重傷者の姿に驚き救援を諦め、校舎に戻ると火が迫ってきました。
煙の匂いを感じたのか、脱出できないと感じた友達は、君が代や校歌を合唱し始めました。
助けることが出来ず、生きたまま焼かれていった友達の声は、生涯私の耳に焼き付いて離れません。
人間檻褸の行列と逃避行
煙に負われ逃げ惑う内に、日赤病院前の大通りに出ました。
そこでは火傷をして手を前に垂らした幽霊の様な行列に出会いました。
私もその列に加わり、「飛出した左眼」を掌に受けてよろよろと歩いて行く青年を見守るように進む内、
急に私の足を掴む婦人の手を無情にも払いのけました。
倒れた塀に腰まで挟まれて助けを求めているのです。
横を行く負傷した兵隊の群れも知らん顔で通り過ぎました。
何度も嘔吐をくり返しながら、気力を振り絞って御幸橋を渡ると、
旧宇品線の丹那駅付近で失神し、気がついたときは民家に担ぎ込まれていました。
夕方になり宇品線、芸備線を利用して深夜近くになって疎開している戸坂の自宅に辿り着きました。
戸坂駅から見る広島方面の天空は真っ赤に燃え盛り、学校の方に向って置き去りにしてきた友に合掌して詫び続けました。
死の淵を彷徨って
8月15日の敗戦の詔勅は高熱にうなされながら聞きました。
その頃は頭髪が殆ど抜け落ち、歯茎等の出血が止りません。
ピカドンには毒があるとの噂から、母は十薬(ドクダミ)を煎じたり、
生葉を蒸焼きして化膿した外傷に貼ってくれました。
8月20日頃から熱は42度に達し、全身に紫斑も出て、医者も治療法が分からず近づかなくなりました。
しかし9月になると不思議に熱も下がり始めました。
生き残った友を襲ったガン
当時の同級生300余名の内、急性原爆症を克服して復学した者は、19名でした。
しかし、高校2年の時止血不全で1名が亡くなり、
大学の卒業を前にして1名が白血病で亡くなりました。
それ以降、年齢を重ねていくにつれて、死亡した友の病名は皆、癌です。
既に16名が亡くなり、今では私を含め3名が重複癌と闘いながら生きています。
私の被爆による「異常染色体」
若年から癌に見舞われた友の中にあって、私は60歳からの晩発生の癌でした。
最初は直腸癌、3年後の胃癌も転移でなく原発性の癌と言われ、
70歳の甲状腺癌も転移でなく、原爆特有の重複癌と言われました。
皮膚癌は65歳から16箇所の手術を繰り返しています。
放射線影響研究所の専門家からは、私の場合、至近距離被爆のため、細胞100個中に102個の
転座という染色体の異常が見られ、
このことからガンマ線4.6グレイの被曝線量と告げられました。
ガンマ線4グレイが半致死量(2分の1の死亡率)だそうです。
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