運命の日、広島二中では
被爆時、私は広島県立第二中学校(広島二中)の2年生14歳でした。
当時、広島二中では3年生以上は学徒動員で軍需工場などに働きに行き、学校には1年生と2年生しか残っていませんでした。
その1、2年生は、夏休み中でも授業の遅れを取り戻すため、学校の授業と建物疎開作業に交互に行っていました。
建物疎開とは、市内中央部で行われていた家屋の解体作業で、空襲に備え、防火帯を造っていたのです。
その建物疎開作業には、市内の全部の中学校と女学校がかり出されていました。
広島二中の受け持ち場所は、爆心地から僅か500m、本川の土手でした。
そこで広島二中の1年生と2年生は、交代で建物疎開作業に従事していました。
運命の日、8月6日は1年生が行きました。
生死を分けた1年生と2年生
2年生であった私どもは、6日は学校に行く日でしたが、前日、建物疎開作業が終わった時、「2年生は明日学校に行くのを止めて、東練兵場に集合して、学校の芋畑の草取りをせよ」という先生の指示があり、東練兵場に集合したのです。
1年生が居た場所は、爆心地から500m、2年生が居た東練兵場での場所は、爆心地から2.5km、この差が生死を分けました。
1年生322名と引率の4名の先生は全滅、東練兵場に集まった2年生は、顔などに火傷こそ負いましたが、死者が出たとは聞いていません。
実を言うと、私はもし学校へ行っていたら、8時15分頃は学校に向かって市内の中心部を歩いていた時間帯で、完全に被爆死していました。
東練兵場に集合したので、助かったのです。
東練兵場での被爆時の様子
東練兵場にいた私ども2年生は、先生から集合という声がかかっていたと思いますが、丁度、上空にB29大型爆撃機が、南の方から3機飛んで来ました。
でも警戒警報も解除されていましたし、機数も少ないので、何か偵察にでも来たのかなと、みんなで見上げていたら、急に反転して逃げて行くので、おかしいなと思った瞬間でした。
もの凄い爆発音とともに強烈な熱風で吹き飛ばされました。
気がついて立ち上がってみますと、丁度広島駅の方向に、輝くようなピンク色の巨大な火炎が猛烈な勢いで湧き上がっていました。
これはてっきり広島駅に爆弾が落ちたに違いない、続いて爆弾が落ちるかも知れないと思い、私は近くの山にある尾長天満宮に何人かの友達と一緒に逃げて行きました。
そこで、私どもは顔の半分に火傷を負っていましたので、天ぷら油を塗って貰い、神社の奥の谷間に逃げ込んだのです。
天ぷら油は火傷の応急措置です。
そこで午後3時か4時頃まで潜んでいて、街の火災も収まったのを見届けてから私は家に帰りました。
家の中は爆風でめちゃめちゃでしたが、幸いにも家の中にいた者や外出していた家族も全員無事でした。
中でも幸運だったのは父で、爆心地から700mくらいのビルの中に居ましたが、幸いなことに厚いコンクリートの壁の内側に居たので無傷でした。
そのビルの数少ない生存者の1人でした。
広島二中1年生の悲劇と鎮魂曲
広島二中1年生が居た場所は爆心地に近く、地上600mで炸裂した原子爆弾を頭から浴びているので、みんなその場で非業の死を遂げられたものと、私は長い間思い込んでいました。
ところが、昭和44年(1969年)にテレビドラマ「碑(いしぶみ)」が放映されました。
それは広島二中1年生の物語でした。
私はそれを見て驚きました。
信じられないような生徒の様子が描かれていたのです。
テレビドラマとともに、「いしぶみ」という本も出版され、それに詳しく書いてあります。
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