被爆体験記
「在日韓国人二世の被爆証言」
本財団被爆体験証言者  李 鍾根
プロフィール
〔イ・ヂョングン〕

1928年生まれ。 朝鮮半島から日本に渡った両親のもとに島根県で生まれる。 国民学校高等科卒業間近の頃、運輸省広島鉄道局に就職。 広島第二機関区に所属していた16歳の時、職場に向かう途中、爆心地から2.2kmで被爆した。

運命の瞬間
  1945年8月6日の朝、16歳の私は、宮島線の路面電車に乗って、職場の広島第二機関区に出勤していました。 廿日市(はつかいち)駅を出発して、広島駅近くの的場町(まとばちょう)で下車し、猿猴川(えんこうがわ)にかかる荒神橋(こうじんばし)を渡って、荒神町に入ったその時です。
  突然、黄色みがかった光線が走りました。 その光は2〜3秒間漂っていて、私は「何だろうか」と考えながら周囲の様子をうかがいました。 光の中で目前の家が浮いて見えたことを覚えています。 爆撃を受けたら目と鼻と耳を指でふさいで地面に伏せる訓練を受けていたため、私はその場に伏せました。 そのため私は物音ひとつ聞いていません。 しばらくたって顔を上げてみると、朝8時過ぎだったのにもかかわらず、暗夜のように真っ暗でした。爆心地から約2kmの地点でした。

被爆直後
  そのうち辺りがだんだん明るくなってきました。 周囲は、見渡す限り建物が(つぶ)れてしまっています。 私は身につけていた制帽と眼鏡と弁当が無いことに気付き、周囲を駆け回って捜しました。 すると、20m以上離れた場所に弁当が飛ばされていました。 制帽と眼鏡は見つからなかったため、弁当だけを持って荒神橋の下へ避難しました。
  橋の下には4、5人の大人が避難しており、その中の一人に「おい、あんた、顔の皮膚がちょっと変わっとるぞ」と言われて、触ってみると痛みを覚えました。 私は鉄道局の長袖と長ズボンの制服と制帽を着用していましたが、露出していた(ほほ)から首、手などが、熱線をじかに浴びてしまったのです。
  やがて、私は職場へ避難しようと思い、歩き始めました。 道の両側の家々が全て倒れて、がれきの山となっていました。 その下から、多くの人の「助けてくれ―、助けてくれ―」という声が聞こえました。 子どもの声もありましたし、がれきから首を出して叫んでいる人もいました。 私は、とにかく早く逃げたい一心で、その人たちの手を引くことができませんでした。 16歳で子どもだったとはいえ、助けられなかったことが今でも忘れられません。
被爆後の荒神橋 (平和記念資料館所蔵)
原爆により欄干に被害を受けたが、避難路としての役割を果たした。
第二機関区に向かう
  職場に着くと、建物は無事でした。 機関車が出入りするために向かい合う2面が開いた構造なので、爆風が通り抜けて倒壊を免れたようです。 同僚は屋内にいたため、目立つ外傷を負った人は少なかったです。 彼らは私を一目見て「お前、やけどしとるぞ」と言いました。 私のやけどの症状は、皮膚がただれるというよりも、赤みがかった色に変色していたようです。 「やけどなら油がいい」と言って、機関車の整備に使う真っ黒い工業用油を塗ってくれました。 それはもう本当に痛くて、私は泣いてしまいました。 しかも顔から首にかけて真っ黒になってしまいました。
  その後、近くの防空壕(ぼうくうごう)に入って昼頃まで横になった後、おなかがすいたので弁当を食べました。 今だったら被爆した弁当を食べる人はいないと思いますが、そのときは放射線の存在など知る(よし)もありませんでした。

自宅までの悲惨な道程
  16時頃、同じ方向に帰る同僚と一緒に歩いて帰宅することにしました。 稲荷町(いなりまち)弥生町(やよいちょう)を通過し、燃え盛る広島市中心部を避けて、東千田町(ひがしせんだまち)の広島文理科(ぶんりか)大学の前を通ると、そこには黒焦げの死体がたくさんありました。 その後、幾つもの橋を渡って西を目指して進んだのですが、橋のたもとには必ず大勢の人が集まっていました。 全身真っ赤に焼けて、幽霊のような人々が「水をくれぇ」と言いながら、橋を渡る人の顔を一人ずつ必死の形相(ぎょうそう)で見るのです。 恐らく、橋のたもとにいれば身内や知人と出会えるかもしれないと考えたのではないかと思います。
  19時頃、国道2号線に出たときには、山のように死体を積んだ軍隊のトラックが何台も宮島方面に向かって走っていました。 やっとの思いで平良村(へらむら)の自宅にたどり着いたときには、23時をまわっていました。

家族との再会
  家にいたのは妹と弟たちだけでした。 私は朝鮮人であることを隠して働いていたため、両親に勤務先の場所を伝えていなかったのですが、それでも両親は私を捜しに行ったのです。 母は翌7日の朝に、父は昼頃に帰りました。 母は私に「ああ、お前、生きていたのか」と言い、抱き合って泣いて喜びました。 しかし、広島陸軍被服支廠(ししょう)に勤めていた姉は行方不明のまま、とうとう帰ってきませんでした。

被爆者として伝えたいこと
  私が証言する上で強調したいのは、被爆したのは日本人だけではなく、外国人の被爆者も大勢いたということです。 なぜ、その人たちが日本で被爆して死んでいったのか、こうした事実を伝えるためにも、被爆者の一人として証言し続けていきたいと今は考えています。
  最後に、これからを生きる方々に一番伝えたいことは、思いやりのある人になってほしいということです。 思いやりがあれば、差別やいじめもなくなり、ひいては戦争がなくなることにつながると思います。 差別のない世界が、一日も早く来ることを(せつ)に望みます。

被爆体験講話の様子
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