第二機関区に向かう
職場に着くと、建物は無事でした。
機関車が出入りするために向かい合う2面が開いた構造なので、爆風が通り抜けて倒壊を免れたようです。
同僚は屋内にいたため、目立つ外傷を負った人は少なかったです。
彼らは私を一目見て「お前、やけどしとるぞ」と言いました。
私のやけどの症状は、皮膚がただれるというよりも、赤みがかった色に変色していたようです。
「やけどなら油がいい」と言って、機関車の整備に使う真っ黒い工業用油を塗ってくれました。
それはもう本当に痛くて、私は泣いてしまいました。
しかも顔から首にかけて真っ黒になってしまいました。
その後、近くの防空壕に入って昼頃まで横になった後、おなかがすいたので弁当を食べました。
今だったら被爆した弁当を食べる人はいないと思いますが、そのときは放射線の存在など知る由もありませんでした。
自宅までの悲惨な道程
16時頃、同じ方向に帰る同僚と一緒に歩いて帰宅することにしました。
稲荷町、弥生町を通過し、燃え盛る広島市中心部を避けて、東千田町の広島文理科大学の前を通ると、そこには黒焦げの死体がたくさんありました。
その後、幾つもの橋を渡って西を目指して進んだのですが、橋のたもとには必ず大勢の人が集まっていました。
全身真っ赤に焼けて、幽霊のような人々が「水をくれぇ」と言いながら、橋を渡る人の顔を一人ずつ必死の形相で見るのです。
恐らく、橋のたもとにいれば身内や知人と出会えるかもしれないと考えたのではないかと思います。
19時頃、国道2号線に出たときには、山のように死体を積んだ軍隊のトラックが何台も宮島方面に向かって走っていました。
やっとの思いで平良村の自宅にたどり着いたときには、23時をまわっていました。
家族との再会
家にいたのは妹と弟たちだけでした。
私は朝鮮人であることを隠して働いていたため、両親に勤務先の場所を伝えていなかったのですが、それでも両親は私を捜しに行ったのです。
母は翌7日の朝に、父は昼頃に帰りました。
母は私に「ああ、お前、生きていたのか」と言い、抱き合って泣いて喜びました。
しかし、広島陸軍被服支廠に勤めていた姉は行方不明のまま、とうとう帰ってきませんでした。
被爆者として伝えたいこと
私が証言する上で強調したいのは、被爆したのは日本人だけではなく、外国人の被爆者も大勢いたということです。
なぜ、その人たちが日本で被爆して死んでいったのか、こうした事実を伝えるためにも、被爆者の一人として証言し続けていきたいと今は考えています。
最後に、これからを生きる方々に一番伝えたいことは、思いやりのある人になってほしいということです。
思いやりがあれば、差別やいじめもなくなり、ひいては戦争がなくなることにつながると思います。
差別のない世界が、一日も早く来ることを切に望みます。
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