平成28年 追悼平和祈念館 企画展
原爆体験記 ヒロシマ原点の記録
期間 平成28年1月1日〜12月28日 場所 追悼平和祈念館 地下1階 情報展示コーナー 入場 無料
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、毎年テーマを定めて企画展を開催し、被爆体験記などを紹介しています。
今年のテーマは、昭和25年(1950年)に広島市が公募により収集した「原爆体験記」です。
被爆からまだ5年しか経過しておらず、傷跡も癒えない時期に、平和な世界を築こうという広島市の呼びかけに多数の応募がありました。
当時まだ日本は占領下にあり、朝鮮戦争の勃発による東西冷戦の激化を受け、8月6日に開催される予定の平和祭はGHQの指示により直前に中止となりました。
応募作の中から選定された18編の体験記と16編の抜書きが1冊の本にまとめられ、広く内外へ配布される計画だったのですが、結局、長い間倉庫に眠ったままとなったのです。
今読み返してみると、被爆後わずか5年という生々しい記憶が鮮明に残る時期に記されたものであり、被爆の惨状や当時の状況が直に伝わってきます。
企画展会場では、このうち3人の方の被爆体験記を映像化し、3面スクリーンで公開しています。
また、17人の方の体験記の全文を日本語、英語、中国語、韓国・朝鮮語で読むことができます。
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「原爆体験記」
(昭和25年(1950年),広島平和協会)
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広島市が募集した原爆体験記の原稿
(所蔵:広島市公文書館)
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今回、展示している被爆体験記の中から、中前妙子さんと戸田幸一さんの体験記(抜粋)をご紹介します。
中前さんは当時、15歳。学徒動員として広島中央電話局で被爆しました。
……とうとう火も身近に迫って来此処も危険と云う事になり、対岸の比治山へ皆んな避難しだした。
が、たった一つの頼みである鶴見橋が燃え出した。
(中略)
ぐづぐづしては居られない。
皆我こそと川へ飛び込んで逃げ出した。
傷がひどいから川へ入ったらいけないと周囲の人が止められるけれど、今はもう躊躇出来ない。
脇田先生に手を持って戴いて泳ぐ事になった。
以前あれ程、水には恐れなかった私が、途中まで行くと、息切れがし、手足は硬直し苦しくなる一方である。
こんなに苦しい目に会うのだったら一そ死んだ方がとうつらうつらしていると、先生がその度に励まして下さった。
お陰で、川中まで行く事が出来、そこで船の人に助けて貰い、比治山の救護所へ連れて行って貰った。……
戸田さんは、当時、33歳。歯科医師で安佐郡可部町の救護責任者でした。
……三日目からは、二十名位の医師、歯科医師が出動して来て、やっと陣容が整って来た。
それでも医者が足りない。
衛生材料が無い。
薬品が無いの三拍子揃ひである。
着物を裂いて繃帯を作る。
食油の調達。
(中略)
強心剤が無い、リンゲルがない。
安ナカやら、生理的食塩水で注射液を作り、五日目頃から使用し始めた。
これでもやらないより良い。
油を塗る一点張りよりも、赤ちん一点張りよりも、患者に与へる心理的影響は絶大なものがあった。
食事をする暇が無い位忙しい、夜間廻診する時は大変だ、灯火管制で困難を極めた。
かなはぬ時の神願とか。
病者に医者はキリスト様だ。
自分はこの時位、医者と云ふ天職に感激した事はない。
よしやるぞ。……
体験記の続きは、館内の企画展会場と体験記閲覧室で読むことができます。
また、当館のホームページ>>に3人の方々の体験記を掲載しています。
会場では、体験記とともに、執筆者に関連する被爆資料や、原爆体験記を募集した昭和25年前後がどのような時代であったかを紹介する新聞記事等を展示しています。
また、映像は平和学習資料として、DVDでの貸出しも行う予定ですので、ご希望の方は当館までお問い合わせください。
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【お問い合わせ】 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 TEL (082) 543−6271
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