被爆体験記
入市被爆し 原爆地獄を歩く
本財団被爆体験証言者 浅野 温生
プロフィール
〔あさの よしお〕

元中国新聞記者。 運動部長、文化部長、編集局次長、局長職を経て監査役で定年。 現役時代の昭和40年、「ヒロシマ20年」の長期連載企画の取材班のメンバーとして、日本新聞協会賞を受賞。 昭和57年、被爆者代表としてキリスト教団体の招きでイタリアを訪問した。
85歳。中国新聞社顧問。

草取り作業中に被爆
 あの原爆がヒロシマに落とされた時、私は県立広島二中の2年生でした。 「あの日」の前日・8月5日は、建物疎開(たてものそかい)作業のため、今の平和記念公園の南寄り本川(ほんかわ)べりにいました。 そして翌6日、一日交代で建物疎開作業に従事していた1年生321人と、引率の先生4人が原爆の犠牲となったのです。
 6日、私たち2年生は、東練兵場(れんぺいじょう)の芋畑の草取り作業でした。 現場は爆心地から約2.1km。 爆風で全員が吹っ飛ばされ顔や腕などにひどいヤケドをしました。 還暦(かんれき)を迎えた年に「被爆体験を書き残しておこうや」と、88人の手記をまとめて本にしています。
 被爆の瞬間については 「写真のフラッシュを浴びたような」 「雷が落ちたような」 「オレンジ色の光のジュウタンを敷いたような」 と、表現も様々でした。 体ごと吹っ飛ばされて、気が付いたら、友達の顔や手が赤くズルむげになっているので、 「お前、どうしたんなら」 「お前こそ」 と言い合っているうちに、自分のヤケドの痛みに気が付いたと書いています。

(くれ)軍港沖で、キノコ雲を見る
 被爆体験を語るはずが、人ごとみたいな記述となっているのは、原爆が投下された時、私が広島にいなかったからです。
 6日は芋畑、7日は建物疎開と授業がないので、私のお袋が 「蒲刈(かまがり)のおじいちゃんの所へ行って、さつま芋でももらってきてくれんか」 と言うので作業をサボッて、6日朝午前7時広島港発の船で瀬戸内の島へ向かう途中でした。
 呉軍港周辺の島影には、爆撃で大破、沈没した戦艦や航空母艦が無残な姿をさらしており 「これが戦争なんだ」 と悔しい思いで見ていたら、フラッシュのような閃光(せんこう)が走りました。
 何だろうかと空を見上げたらアドバルーンのようなものが、ピンクやオレンジ色にキラキラ輝きながらスーッと空に昇って行きました。 後を追うように積乱雲が空いっぱいを覆っていきました。
 船内では 「火薬庫か、ガスタンクが爆発したんだろうか」 などという声が飛び交っていましたが、1時間前に広島港を出たばかりだし、まさかB29の空襲(くうしゅう)、まして原爆など、想像すらできませんでした。 島に着いて、祖母に 「呉沖で物凄(ものすご)い大爆発を見たんよ」 と話していたら、祖父が役場から帰って来て 「広島は全滅らしい。広島の隣の村長さんから『これから救援に行く』という電話があった」 と話してくれました。
 その夜は祖父宅に一泊、翌7日、対岸の呉線川尻(かわじり)駅から下り列車で、広島へ帰りました。 広島から来る上り列車は、大ヤケドやケガ人で満員でした。 広島行きの列車は、何度も臨時停車しながら広島の3つ手前の矢野駅まで着きましたが、ここから先は運転中止となり、広島の自宅までの12、3kmは歩きました。

幽霊(ゆうれい)の行列
 途中、広島から逃げて来る被災者の群れが絶えまなく続き、大ヤケドの体に焼け残った衣服をまとい、前に突き出した両手の先から、ボロ切れのようなヤケドの皮膚を垂らした被爆者たちは“幽霊の行列”そのままでした。
 途中の民家は、広島が近づくにつれ、半壊から全壊へと被害が大きくなり、爆心地から2.3kmの我が家も、柱は折れ、壁は崩れ、タンスや(ふすま)もメチャメチャ、1、2階の屋根瓦(やねがわら)は巨人が引っかき回したようになっていましたが、母親と幼い弟妹は奇跡的に無事でした。

翌8日、爆心地を歩く
 当時、空襲などの非常時の際は、学校に連絡することになっていたので、翌8日、約4km離れた二中まで歩きました。 門柱には「死体収容所」の張り紙がしてあり、グラウンドには30余りの死体が転がっていました。 校舎は全焼して跡形もなく、先生らしい姿も見えないので、好奇心に引きずられて市の中心部を目指しました。 あの頃の私たちは、原爆のゲの字も知らず、放射能などと言う言葉も知識も無かったので、何の不安も持ちませんでした。
 途中の惨状は、筆や言葉では説明できないほどひどいもので今でも忘れられない光景が幾つかあります。 原爆ドームに近い相生橋(あいおいばし)(そば)では、爆風で脱線した電車が丸焼けとなっており、即死状態だったのか、座席らしき所に、4、5人分の白骨が並んで残っていました。
 また近くの防火用貯水槽では数人の焼け焦げた死体が、(はし)立ての箸の様に立ったまま焼け死んでいました。 そして数万戸もの大火災で、貯水槽の水も蒸発、底の方に残った水につかった(ひざ)から下だけが生身でした。
 鬼気(きき)(せま)るこの場面を思い出すと、記憶の中の色が抜け落ちて白黒フィルムみたいになってしまうのです。

被爆証言の動機
 私が被爆証言をする気になったのは、数年前、テレビを見ていたら、平和記念公園を訪れた外国人観光客が 「ここが公園でよかったですね。人が住んでいたら、もっと被害が大きかったでしょう」 と話しているのを聞いたからです。
 私は、新聞記者時代に何度も原爆・平和報道に(たずさ)わり、被爆者の訴えを活字で代弁、伝承してきたつもりでしたが、数少ない“生き残り証人”の一人として自分の言葉でも語り継ぐべきではないかと、改めて思ったわけです。
 第二次世界大戦が終わって72年経とうとしている現在も、世界の核保有国が貯蔵している核爆弾は計15,400発と言われています。 そしてイスラム過激派や中東での無差別テロは今も跡を絶ちません。 こうした狂気集団が核を入手したらと、考えるだけでゾッとします。
 昨年5月、オバマ大統領が初めてヒロシマを訪れ、原爆慰霊碑に献花しました。 世界に大きな影響力を持つアメリカ大統領のヒロシマ訪問が核廃絶への大きなうねりとなるよう念じながら、これからも被爆体験の証言活動を続けたいと思っています。
広島二中原爆死没者慰霊祭(平成27年8月6日)で追悼の辞を読む浅野さん
(被爆70周年記念事業 原爆死没者慰霊式典の記録(広島市)より)
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