和文機関紙「平和文化」No.204, 令和2年7月号
被爆体験記

「生死の運命」

本財団被爆体験証言者
山瀬 潤子
松井市長

原爆当時の様相
 1945年当時、家族は祖母、父母、中学2年生の長兄と国民学校6年生の次兄、国民学校3年生で8歳の私、妹4歳、弟2歳の8人家族でした。 8月6日8時15分、台所に居て、窓ガラスに橙(だいだい)色の裸電球の光を見た次の瞬間、凄(すさ)まじい轟音(ごうおん)と共に隣の和室に爆弾が落ちました。 いや、落ちたと思ったのです。
 原爆の風圧で天井は垂れ下がり、粉塵(ふんじん)は舞い、障子、襖(ふすま)、家具が吹っ飛びました。 本能的に母と抱き合って床に伏せました。 背中にガラスの破片が散らばりました。 急いで家(段原中町(だんばらなかまち))の前のバス道路に出ますと、近所の人達が口ぐちに「家に爆弾が落ちた」と叫んで、おろおろしていました。 隣の薬屋のおばさんが幼な子を抱いて、道路にしゃがみ込み、腕から血を吹き出しながら「助けて下さい、助けて下さい」と叫んでいました。 母が身に着けていた日本手拭(てぬぐ)いで腕を縛り上げて止血の応急処置をしてあげました。 おばさんの4歳の男の子は片目にガラスが刺さり失明しました。 見渡す限り建物は破壊され、倒壊しています。 寸前まで快晴だった空が原子雲で蔽(おお)われ、地上の粉塵が舞い上がり、一瞬にして夕暮れのように暗くなったのです。 それは不気味な恐怖の世界でした。 家の前を屋根のない三輪トラックが通りました。 荷台に血と埃(ほこり)にまみれ、衣類を辛うじて纏(まと)っている全裸に近い人が動かないで横たわっています。 路上の障害物を乗り越えてトラックがバウンドすると、荷台の負傷者も一緒にバウンドしていました。
市民が描いた原爆の絵(松村智恵子)

市民が描いた原爆の絵「比治山へ避難した人々のようす」 (作者 松村智恵子(まつむら ちえこ)さん)
(作者の説明)「ここは比治山に登る道で、一寸山かげになっている為か、立木も残り木のかげが道にできていた。 何事がおそい来たかもわからず唯苦しさに息もたえだえこゝまでのぼって来た人達であろう。 もうすでに息が絶えている人もある。 その間にあってまだ息あるものは苦しさにあえぎながら、水、水と声をふりしぼって水を求めている。
わが子の死体をかかえた母親の姿が今も目に浮んで来て胸をしめつける。 生き地獄そのまゝのありさまは、目を開いてまともにはとうてい見ることができなかった。」

 比治山(ひじやま)の絶壁を登るような山道の、狭くて柵(さく)のない坂を、二人が肩を組んだり、棒切れを頼りに体を支えたり、お尻(しり)を地につけて座ったままで進んだり、皆、髪ぼうぼう、破れ汚れた服の負傷者が降りて来る行列が続きました。 国民服にゲートル(脚絆(きゃはん))姿の男の人がメガホンで「皆さん気違いが横行していますから気を付けて下さい」と触れ歩いていました。 一瞬にして原爆と言う地獄の修羅場をくぐり抜けて、精神状態が正常ではなくなった人が現れても不思議ではありません。
 
父の火傷・ケロイド
 夕方近く父が左半身に大火傷を負って帰って来ました。 数日後、家の傷みがひどくて住めないので、爆心地より4.5km離れた淵崎(ふちざき)(現在の仁保(にほ)一丁目)へ疎開しました。 父は終日寝て、首筋、二の腕から手首、手指の火傷の療養をしました。 腕の血膿(う)みの臭いをハエが嗅ぎつけてブーンと音をたてて飛んで来ます。 化膿(かのう)した火傷の腕にハエが卵を産んで、うじ虫が湧(わ)いたら大変です。 家族が交代でうちわでハエを追い払いました。 父の火傷の細胞は異常に増殖して皮膚が盛り上がり、関節を跨(また)いでケロイドとなって残りました。 腕の関節は「く」の字に曲がり、小指、薬指も蟹(かに)の足のように曲がり、一生、真っ直ぐ延ばすことは出来なくなりました。
 
一家8人無事
 長兄は県立一中2年生でした。 原爆が落とされた日は月曜日でしたが、急きょ休日になった日でした。 長兄の上級生、下級生353人の優秀な生徒が原爆で亡くなりました。 父は出勤途中で爆心地より1.8km離れた電停に立っていました。 混んでいた電車をひとつ見送ったことで助かったのです。 母は長兄と田舎へ買出しに行きたかったのですが、長兄の気が進まず取りやめていました。 バスは爆心地近くを通っていたので一命を取り留めました。 祖母は縁故疎開、次兄は集団疎開をしていて無事でした。 私は補習授業に行く前で、家におり、妹と弟も家にいて無事でした。
 
ヒロシマから世界に
 核兵器を開発、所有している国。 開発、所有していなくても核戦争の抑止力になると保有を認め許している国があります。 核兵器のない平和な世界になることを切望します。 私は一人でも多くの人に自分が経験した原爆を語り継ぎたいと思います。 人と人が繋(つな)がって平和運動を拡げれば各国の指導者をも動かす力になると言っても過言ではないでしょう。 ヒロシマからの発信、行動には重みがあるのです。
 

プロフィール 〔やませ じゅんこ〕
国民学校3年生で8歳の時、広島駅前の家が建物強制疎開にあい、爆心地より2.2km 離れた比治山のふもとの段原中町へ引っ越して被爆。
広島信用金庫を1966年に退職。 のち宅地建物取引士、行政書士、医療法人・社会福祉法人理事を経て2015年引退。
 
公益財団法人 広島平和文化センター
〒730-0811 広島市中区中島町1番2号
 TEL (082)241-5246 
Copyright © Since April 1, 2004, Hiroshima Peace Culture Foundation. All rights reserved.