和文機関紙「平和文化」No.208, 令和4年1月号

資料展「原爆ドームの軌跡 ―世界遺産登録から25年

 2021年(令和3年)12月、原爆ドームが世界遺産に登録されてから25年を迎えました。 広島平和記念資料館情報資料室では現在、原爆ドームが世界遺産へ登録されるまでの歩みを、東館地下1階で展示しています。 写真や当時の新聞記事を中心に45件の資料を掲載した9枚の展示パネルで紹介しています。
 被爆直後、原爆ドームは危険物として取り壊される予定でしたが、当時の広島県都市計画課長・竹重貞蔵(たけしげ ていぞう)氏が「原爆の惨状を後世に伝えるもの」として、ほぼ独断で取り壊しを中止させました。
 1949年(昭和24年)に実施された「広島市平和記念公園及び記念館設計懸賞」の募集要項は、今回初めて公開された資料です。 建築史、建築保存の視点から原爆ドームを研究した穎原澄子(えばら すみこ)千葉大学准教授は「これまで6種類の雑誌・新聞の抄録を見たが、募集要項そのものは初めての確認」と言われました。
設計懸賞の募集要項
設計懸賞の募集要項(佐藤禎子(さとう よしこ)氏提供)
この募集要項は、「原爆ドームの主治医」と称された佐藤重夫(しげお)広島大学名誉教授が残された資料です。
 募集要項の表紙には、当時の原爆ドームのスケッチが配置されており、裏表紙の予定地の地図には、元産業奨励館が示され、現レストハウスは未記載です。 「元産業奨励館の残骸は」「存置する予定」との説明もあります。 建築や都市計画の専門家が、早い時期から原爆ドームの保存に前向きであったことがわかります。
 しかし、広島は復興を優先させるべきであり、惨い原爆の記憶を連想させるものは撤去すべきであるという市民の声もあり、幾度となく原爆ドームの存廃論争が起こりました。 こうした中、原爆ドームの保存に取り組んだのは「広島折鶴の会」の中・高校生でした。 彼らは、「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐る(べき)原爆を訴えてくれるだろうか」と記された、白血病で亡くなった楮山ヒロ子(かじやま ひろこ)さんの日記に感銘を受け、1960年(昭和35年)5月5日の集いで、この日記を朗読しました。 集会の様子は全国中継され、その折の台本が「広島折鶴の会」世話役だった被爆者の河本一郎(かわもと いちろう)氏の資料にありました。 当時は生放送は録画をしなかったので、番組の様子を記した台本は貴重と言えます。
 子どもたちの活動は大人たちを動かし、広島市議会は、被爆後21年を経た1966年(昭和41年)、ドームの保存を決議しました。
 そして、1992年(平成4年)、日本がユネスコの世界遺産条約に加盟したのを契機に、原爆ドームを「核兵器の恐怖を物語る生き証人として」世界遺産にという声が上がりました。 連合広島を中心とした広島県内14団体が「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」を結成し、全国的な署名運動を展開。 こうした地域の盛り上がりを受けて、1995年(平成7年)、原爆ドームは国の史跡に指定され、世界遺産に推薦されました。 翌年12月にメキシコ・メリダで開催された世界遺産委員会において、宮島の嚴島(いつくしま)神社と共に原爆ドームは世界遺産一覧表へ登録されたのです。
 この資料展は3月末まで開催しています。
(平和記念資料館 学芸課)
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