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サダコさんの入院(にゅういん)

 サダコさんの体の調子がおかしくなったのは、運動会のリレーで優勝(ゆうしょう)してまもなくでした。かぜをひいたとき首のまわりにできたシコリが消えなくなったのです。1955(昭和30)年があけたころには、とうとう、顔がはれて見えるようになってしまいました。

 いろいろな検査(けんさ)の結果、2月になって、医師(いし)がお父さんに「サダコさんは白血病(はっけつびょう)で、長くても1年の命でしょう」とつげました。そして、サダコさんは広島赤十字病院に入院することになりました。
 竹組のお友だちは、サダコさんのために自分たちにできることを話し合い、交代でお見舞(みま)いにいくことにしました。

 
サダコさんが大切にしていたこけし
(広島平和記念資料館所蔵
 寄贈 佐々木繁夫)


折りづるにお願いしたこと。

 入院して5カ月たったころ、同じ病院に入院していた5さいの女の子が白血病で()くなりました。「わたしもあのように死ぬ のだろうか」──サダコさんはポツリと口にしました。サダコさんは、自分が血液の病気であることを知っていたのでしょう。12さいで、死の恐怖(きょうふ)とたたかっていたのです。

 8月、名古屋の高校生たちが入院患者(かんじゃ)にお見舞(みまい)いの千羽鶴(せんばづる)を送ってきました。色とりどりのセロファン紙で作られた折りづるは、サダコさんたちの部屋にも(とど)けられました。

サダコさんが折った鶴
(所蔵 広島平和記念資料館 寄贈 空田寛美・幡生昌子(サダコさんのお友だち))
 サダコさんがツルを折りはじめたのは、このあとでした。「ツルを千羽折ったら願いがかなう」といういいつたえをきいて、「元気になりたい」という願いをこめて、一生懸命(いっしょうけんめい)折りつづけたのです。

 
サダコさんの命の火が消えた。

(1955年3月 撮影:野村 剛 提供:那須(なす) 正幹(まさもと)
幟町小学校の卒業式を前に、外出許可(きょか)をもらって竹組のお別れ会に出席したときのサダコさん。(さくら)のもようのきものは、入院することになったとき、お父さんとお母さんが買ってくれたもの。
 サダコさんは、「いたい」とか「つらい」と口にすることはありませんでした。ただ、いのりをこめて、ツルを折るのです。でも、病気は進んで、熱があがり、頭がいたくて(ねむ)れない日がつづきます。それでも、サダコさんは必死でツルを折りつづけました。

 そして、10月25日の朝、サダコさんはとうとう12年のいのちをとじたのです。
運動会のリレーで竹組が優勝(ゆうしょう)して、ちょうど1年が()ぎたころでした。
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