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自分たちにできることは?

 サダコさんが亡くなってから、竹組で同級生(どうきゅうせい)だったみんなは、「サダコさんのために自分たちも何かしたい」と話していました。友だちなのに、何も助けてあげられなかったというくやしさが、みんなの(むね)にシコリとなっていたのです。

 みんなは、話しあいました。

 「サダコちゃんのお(はか)をたてられないだろうか」とだれかが言いました。「近くにお墓があったら、毎日、おまいりできるでしょう」

(撮影時期不詳/佐々木家)

同級生がたちあがった。

 「佐々木禎子(ささきさだこ)さんだけじゃない、原爆の犠牲(ぎせい)になった子どもたちみんなのために、平和記念公園に(ぞう)をつくってはどうだろう」

 「自分たちの力でそんなことができるのだろうか」と、みんな不安でした。でも、「サダコさんのために何かしたい」、「原爆(げんばく)なんかなくしてしまいたい」という気持ちが、みんなを動かしました。

  日本中の子どもが協力した。

 
サダコさんの同級生(どうきゅうせい)たちは、募金(ぼきん)を集めて、(ぞう)を作ろうという運動をはじめました。みんなの(うった)えは、思いがけない反響(はんきょう) をまきおこしました。全国の3000校をこえる学校から「像の 建設(けんせつ)に役立ててください」という手紙と募金が送られてきたのです。

 1957(昭和32)年1月、平和記念公園のなかに「原爆の子の像」をたてることが正式に決まりました。

 像が完成したのは、佐々木禎子(ささきさだこ)さんが()くなってから2年後、1958(昭和33)年のこどもの日です。



原爆の子の像 
 サダコさんをはじめ、亡くなったこどもたちはかえってはこないけど、少なくとも、「ふたたび、原爆によって子どもたちが犠牲(ぎせい)になることのないように」というきもちが、像の前におかれた石の()にきざまれています。
 これはぼくらの(さけ)びです
 これは(わたし)たちの(いの)りです
 世界に平和をきずくための
 
 
「原爆の子の像」の像の部分は東京芸術大学の教授(きょうじゅ)だった菊池一雄(きくちかずお)さんの作。台の部分は東京大学の教授だった池辺陽(いけべきよし)さんの作。中には原子物理学者の湯川秀樹(ゆかわひでき)博士から(おく)られた(かね)をつるすことができる。
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