こどもたちの戦後

教室も教科書も十分にないけど、学校がはじまった。

学童疎開(そかい)していた子どもたちも広島に帰ってきました。広島市内の学校も、原爆(げんばく)で焼けてしまったり、原爆被災者(げんばくひさいしゃ)救護(きゅうご)所や収容所(しゅうようじょ)として使われていたりして、子どもたちが校舎で勉強できる学校は、4分の1くらいしかしかありませんでした。
それでも、ほかの建物を借りて授業(じゅぎょう)をしたり、校庭のガレキをかたづけて「青空教室」を開いたりして、少しずつ勉強できる環境(かんきょう)がととのっていきました。
●青空教室
1946(昭和21)年4月、新学期がはじまったころの(のぼり)町国民学校の授業(じゅぎょう)
撮影(さつえい):スティーブン・ケレン
提供(ていきょう):広島市公文書館

●「原爆孤児(げんばくこじ)
原爆(げんばく)で家族をなくし一人っきりになってしまった「原爆孤児(げんばくこじ)」は2000人から6500人といわれ、戦災(せんさい)児育成所などに入って(くら)すことになりました。しかし、子どもたちの中にはいろいろな理由から浮浪者(ふろうしゃ)となり、(くつ) 磨みがきなどをして自分で働きながら生きていく子どももいました。

 

慰霊式(いれいしき)に出席した原爆孤児(げんばくこじ)たち (広島市似島(にのしま)

撮影(さつえい):スティーブン・ケレン
1946(昭和21)年11月
出典(しゅってん)
:"I REMEMBER HIROSHIMA"
          Hale & Iremonger社刊(1983年)