原爆(げんばく)が落とされてから、広島の街はどのようにして復興(ふっこう)されていったのですか?
いま、私達(わたしたち)のクラスでは、(はん)ごとにわかれて、原爆(げんばく)について、調(しら)べ学習を行っています。

その中で私達(わたしたち)(はん)は、『広島に原爆(げんばく)が落とされてから、現在(げんざい)にいたるまで』というテーマで調(しら)べています。

もう植物が生えてこないのではないか、とまでいわれた広島が、どのようにして今のようなきれいな街になっていったのかを教えてください。

簡単(かんたん)に説明できることではありませんので、ここでは大まかな広島のいままでをお話しします。
原爆(げんばく)が落とされてからの市民の生活は、とてもつらくてたいへんなものでした。戦争が終わってから1年たった1946(昭和21)年の秋、(こわ)れた町や人々の生活をもとのように(もど)すための計画が決められましたが、お金がないため計画はなかなか進みませんでした。

やがて、1949(昭和24)年5月の国会で「平和記念都市建設(けんせつ)法」が決められました。この法律(ほうりつ)は、「恒久(こうきゅう)の平和を誠実(せいじつ)実現(じつげん)しようとする理想の象徴(しょうちょう)」(いつまでも平和な世界をつくろうと求める都市)として(あたら)しい広島をつくることをめざしたものです。 この法律(ほうりつ)ができたことで、戦争中に軍の建物などが建っていた国の土地をただで広島市にゆずってもらえたり、また、計画を進めるためのお金も足りないところは国が助けてくれました。

そして、平和記念公園や平和大通り・橋・住むところがなくなった人のための公営(こうえい)住宅(じゅうたく)などができていきました。

広島市の人口(住む人)が戦争前にいちばん多かったときと同じ41万人(まんにん)まで増ふえたのは、戦争が終わって10年以上たった1958(昭和33)年のことです。この年の4月広島復興(ふっこう)大博覧会(だいはくらんかい)開催(かいさい)されました。多くの市民はこのイベントによって、「復興(ふっこう)を実感した」といわれています。

さらに、その後 日本全体がいっしょけんめい働いて(ゆた)かになっていった高度成長時代に人口が()え、都市としてできることが()えてきました。また、昭和40年ごろから、まわりのいくつかの町や村とひとつになり、1980(昭和55)年、全国で10番目の政令指定都市(せいれいしていとし)(人も多く、市としてたくさんの仕事や計画ができる、県と同じくらいの都市のこと)に指定されました。

現在(げんざい)、広島市は水と緑と市民が(かがや)き、世界の人々に勇気と希望をもたらす活力ある都市「国際平和(こくさいへいわ)文化都市」の実現(じつげん)をめざしてまちづくりを進めています。くわしいことは、次の本を見てください。

●広島市の復興(ふっこう)のようすを知るための資料(しりょう)
「広島被爆(ひばく)40年史(ねんし)都市の復興(ふっこう)
広島市発行(はっこう) 1985年
被爆(ひばく)50周年図説戦後広島市史 街と暮らしの50年」
広島市発行(はっこう)1996年
「図録広島平和記念資料(しりょう)館ヒロシマを世界に」
広島平和記念資料(しりょう)発行(はっこう) 1999年

広島市のホームページ http://www.city.hiroshima.jp/

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