原爆(げんばく)ドームの保存(ほぞん)運動(うんどう)

終戦後、原爆(げんばく)ドームは、保存(ほぞん)と取り(こわ)しの間で結論(けつろん)がつかず、爆心地(ばくしんち)に放置されていました。
撮影:米軍

楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記

ヒロ子さんの写真(右)と、父母からの手紙が添えてあります。

楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記

保存(ほぞん)運動(うんどう)のきっかけとなったのは楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記でした。
ヒロ子さん(当時1(さい))は、平塚町(ひらつかちょう)自宅(じたく)被爆(ひばく)。15年後の1960年4月5日に白血病で()くなりました。残された日記の1959年8月6日のページには、「八時十五分、平和の鐘が鳴り外国代表のメッセージを読み終わり、十四年前のこの日この時に広島市民の胸に今もまざまざと、記憶されている恐るべき原爆が十四年たった今でも、いや一生涯焼き残るだろう。(中略)あの痛々(いたいた)しい産業(さんぎょう)奨励館(しょうれいかん)(原爆(げんばく)ドーム)だけが、いつまでも、(おそ)るべき原爆(げんばく)を世に(うった)えてくれるのだろうか」(要旨(ようし))と記されています。
提供:楮山(かじやま)国人(くにと)・キミ子

子どもたちの保存(ほぞん)運動(うんどう)

原爆(げんばく)ドームの存廃(そんぱい)について結論(けつろん)が出ない中、映画(えいが)千羽鶴(せんばづる)」の制作(せいさく)をきっかけに作られた子どもたちの団体(だんたい)「広島折鶴(おりづる)の会」は、ヒロ子さんの残した日記に心を打たれ、いち早く原爆(げんばく)ドームの保存(ほぞん)運動をはじめました。広島折鶴(おりづる)の会などが参列(さんれつ)した「原爆の子(げんばくのこ)追悼(ついとう)のつどい」では楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記が朗読(ろうどく)されました。
1960(昭和35)年8月6日 平和記念公園
提供:中国新聞社

保存(ほぞん)工事(こうじ)

高まる市民の声に()され、1966(昭和41)年、広島市議会は原爆(げんばく)ドームの保存(ほぞん)を要望する決議を行いました。以後、国の内外から()せられた募金(ぼきん)で3度の保存(ほぞん)工事(こうじ)が行われました。

世界(せかい)遺産(いさん)

1992(平成4)年、日本のユネスコの世界(せかい)遺産(いさん)条約(じょうやく)加盟(かめい)を機に、原爆(げんばく)ドームを世界(せかい)遺産(いさん)にという声があがりました。市民団体(だんたい)が全国的な署名(しょめい)運動(うんどう)展開(てんかい)。1996(平成8)年、原爆(げんばく)ドームは世界(せかい)遺産(いさん)一覧表(いちらんひょう)に登録されました。写真はドーム前に積み上げられた署名(しょめい)
1993(平成5)年10月1日 平和記念公園
提供:中国新聞社

現在(げんざい)原爆(げんばく)ドーム

健全度調査

原爆ドームは経年劣化等を把握することを目的に、原則3年毎に健全度調査をしています。
平成23年(2011年)は、12月14日(水)~平成24年(2012年)3月15日(木)の間で実施し、内壁や鋼材の傷み具合などを確認しました。

松井一実広島市長が調査中の原爆ドームの内部を視察しました。平成24年2月26日撮影 広島市広報課提供


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