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核兵器禁止条約の展望と平和首長会議の提案
小溝 泰義
 1 核兵器のない平和な世界を目指す被爆地の視点
 核兵器の脅威は、「平和」を希求するすべての人にとって無視できない問題だ。 かけがえのない「平和」を実現し守るために取り組むべき核兵器廃絶という課題について、被爆地広島の視点を中心に論じたい。
 2018年の初め、世界終末時計が、真夜中 (すなわち世界の破滅) まで2分となったことが発表された。 過去に米ソが水爆実験をして核戦争の危機が高まった1953年以来の危機認識だ。 核兵器の脅威と気候変動という二つの地球規模の問題に対する指導者の対応の欠如が主要原因とされている。 核兵器と気候変動。 この二つの問題の底流には、共通した課題が横たわっている。 地球規模の問題の解決に、国籍や文化、宗教、人種の違いを超えて協力ができるかという課題だ。
 グローバリゼーションが否応なく進む一方、これを支えるべき人類としての一体感、同朋意識は未発達。 経済的・社会的格差・不平等も拡大傾向にある。 このため、相互不信、分断化、対立、紛争が目立つのが残念な現状。 近年、排他的・閉鎖的な傾向も強まり、争いが武力衝突に至る危険性も増している。 そのような不安定な世界に今も14000以上の核兵器が存在する。 そして信用できない相手と武力衝突の危険を圧倒的な脅しで何とかしのごうとするのが「核抑止」にほかならない。 核兵器は意図せずとも事故や誤算により、またテロリストにより使われる危険が高いことが記録公開で分かってきた。 核抑止が破たんすれば、受け入れがたい非人道的な悲劇が生まれる。 また、核抑止という考え方には伝染性があり、北朝鮮の核開発のような核兵器拡散の危険も伴う。 核抑止は、長続きする平和の基礎には到底なり得ない。 現状は、ウィリアム・ペリー元米国国防長官が、「核兵器による大惨事が起こる可能性は冷戦時より高い」と評する事態になっている。
 広島で生まれた超党派の地方自治体首長の国際組織・平和首長会議 (会長松井広島市長。世界163か国・地域に2019年1月現在7701都市が加盟) は、「安全で活力のある都市を実現する」自治体首長の責任感から、被爆者の切実な願いを重視し、「核兵器のない平和な世界の実現」を目指している。 そして、このための重要な措置として、核兵器禁止条約を推進してきた。 為政者が核兵器禁止の決意を明確にすることが政策転換の出発点だからだ。 さらに、平和首長会議は、核兵器のない平和な世界の実現には、「私たち」と「あの人たち」を対立するものととらえて、私たちを守るためには、あの人たちはどうなっても構わないという考え方自体を変える必要があると考える。 それこそが核抑止の考えに潜む病根だからだ。
 だからこそ、平和首長会議は、核廃絶の目標に向かう様々なアプローチには、それぞれ価値・役割があることを認め、対話、包括性 (「誰も置き去りにしない」)、相互補完性 (オーケストラのように多様な人々が補い合ってより大きな効果を上げること) の三つを重視し、幅広い核廃絶への流れを作る努力をしている。 相互不信と対立の極まる先に核兵器の破局があるならば、この解決には相互理解と協力の促進が不可欠だからだ。 長続きする平和を実現するためには避けて通れない最も確かな道だと信ずる。
 以上、被爆地から生まれて世界に展開する平和首長会議の基本的アプローチを明確にした上で、本章の議論を進めたい。
 2 広島・長崎の被爆者のメッセージ
 核兵器の問題は、歴史上現実に核兵器が都市の無差別攻撃・大量殺戮に使用された広島と長崎の事例を避けて論ずることはできない。 そして核兵器の非人道性を自らの体験によって知る先覚者ともいうべき被爆者の声を聴くことが不可欠だ。
 1945年8月、広島・長崎両市は、それぞれ一発の原子爆弾により一瞬にして廃墟と化し、その年の暮れまでに両市合わせて21万人を超える尊い命が奪われた。 被害者の大多数は、非戦闘員のこども、女性、老人だった。 当時、日本各地で焼夷弾による空爆が続き、都市が焼き尽くされていた。 これに対処するため、広島では、今で言う中学生の年代の生徒たちも、建物を取り壊して防火帯を作る作業に動員され、原爆投下の8月6日には、7000人以上の12歳から14、5歳の中学生たちが市の中心部で働いており、その内6000人強が亡くなった。 原爆資料館には、被爆時に着ていたこの子達の衣服もご遺族から寄贈され展示されている。 かろうじて生き残った被爆者の方々も、社会的な差別や、白血病、ガンなどの重大な健康障害に苦しみながら、「健康が欲しい。人並みの健康をください。」と何度も涙してきた。 被爆者の苦しみは、73年経った今も続いている。
 自らが筆舌に尽くしがたい被爆の惨状を経験したからこそ、被爆者は、「こんな思いをほかの誰にもさせてはならない。」という深い人道的信念を持ち、平均年齢が82歳を超えた今も、核兵器のない平和な世界の実現を訴え続けている。 この訴えは復讐を求めるものではなく、誰もが良い人生を生きる権利があるはずだとの考えに基づいた尊い訴えであり、核兵器のない世界を目指す世界の人々が、繰り返し立ち返るべき重要な原点を提供する強力なメッセージだ。 広島・長崎のあと、核兵器が使われてこなかった背景に、この被爆者の切実な訴えがあることは明らかだ。
 3 核軍縮・不拡散の歴史 (概観)
 核軍縮・不拡散の歴史を振り返ると、被爆の実相と被爆者の訴えを世界に伝え、また、専門的な見地から核兵器の非人道性と使用のリスクを明らかにした人々、核軍縮の勇気あるイニシアティブをとった少数の為政者のリーダーシップがあった。
 特に、核兵器禁止条約の採択に至る最近の過程で、2007年に発足したICANという市民社会の幅広い層を巻き込んだキャンペーン組織が、草の根で大きな推進力となったことは間違いない。 その意味で、被爆者の方々の訴えと幅広い市民社会の貢献を代表するものとしてICANがノーベル平和賞を受賞したことは理に適っている。
 初期の核軍縮努力
 第二次大戦直後から、核兵器の破壊的帰結と原子力国際管理や核兵器廃絶の必要が国際的に議論されるようになった。
その最初のものは、1945年11月の米英加共同宣言 (Three Nations Agreed Declaration on Atomic Energy) である。
 これは、原爆開発に携わった米英加三カ国首脳が米国ワシントンDCで発表したもので、第二次大戦の惨禍を踏まえ、戦争の防止によってのみ文明社会を科学知識の破壊的利用から完全に守れることを強調する一方、原子力エネルギー全般の国際管理が不可欠であるとして、できたばかりの国際連合にこの問題の検討を求めている。
1946年1月24日、ロンドンで開かれた第1回国連総会の決議第1号は、核軍縮を目指すものだった。 国連原子力委員会 (安保理の五常任理事国およびカナダで構成) の設立を決定するとともに、その任務として、平和目的に限った原子力利用の管理、核兵器および他の大量破壊兵器の軍備撤廃、ならびに査察などの方法による効果的な保障措置について具体的な提案を行うことを定めた。
1946年6月には、国連原子力委員会において、米国がバルーク提案 (核の国際管理提案) を行ったが、この提案には、核の国際管理違反には安保理の拒否権を認めないとの文言が含まれていたため、ソ連が猛反発。 まず、核兵器を禁止し既存の核兵器を廃棄した後に、原子力の国際管理をすべきだと反対提案 (グロムイコ提案)。 国際管理が先か核廃絶が先かとの論争が未決着のまま米ソ両国は冷戦下の核開発競争に入っていった。
 核兵器の拡散と拡散防止対策
 米国は当初、米国のみが核兵器を保有する核独占体制が国際社会の安定に資するとの考えから米国政府のみによる核・原子力の独占を意図する最初の原子力法 (1946年7月のマクマホン法) を制定した。 これは、国連等の場で主張した原子力の国際管理とは異なるもので、(米国の) 原子力委員会 (Atomic Energy Commission: AEC) を設立して核を一元管理するとともに、核物質の民間所有を禁じ、また、核物質や原子力情報の国外移転を禁止した。
 しかし、米国による核の独占は短命に終わり、1949年にはソ連が原爆実験に成功。 次いで、1952年には英国が原爆実験に成功した。 さらに英国が野心的な発電用原子力計画を発表するなどの急速な国際情勢の進展と米国内の原子力民生利用解禁の要求の高まりもあって、米国は核独占政策から一転して、核兵器拡散防止のための保障措置を条件とする国際的な原子力平和利用の推進を打ち出すに至った。
 これが、1953年12月の国連総会におけるアイゼンハワー大統領による「平和のための原子力」 (Atoms for Peace) 演説である。 この演説での提案に基づき、1957年に国際原子力機関 (International Atomic Energy Agency: IAEA) が設立された。
 核兵器の拡散は続き、1960年にはフランス、1964年には中国が核実験を行った。(なお、1952年には米国、1953年にはソ連が水爆実験を行っている。)
 「平和のための原子力」演説の後、平和目的の原子力利用の国際展開が始まるが、米ソ冷戦下の対立構造を背景に、米国は原子力技術移転を友好国に限って行うこととし、その手段として「二国間原子力協定」に基づく選別的な原子力技術移転の方式を採用した (ソ連や英国をはじめ他の原子力技術保有国もこの方式を採用。)。 ちなみに二国間原子力協定は、IAEAの保障措置制度が整備された後も継続し、IAEAの保障措置協定とならぶ、核兵器拡散予防のいわば多重防護システムの一環として現在も機能している (なお、二国間原子力協定による原子力技術・設備の国際移転が核兵器の拡散を助長した例もあるとの論考もあることも合わせて指摘 しておきたい。)
 核・原子力技術が世界に広がる中で、核兵器開発競争に歯止めをかけ、また核兵器の拡散を防止するための措置をとる為政者が出てきた。 1962年10月のキューバ危機の後、1963年3月21日の記者会見でケネディ米国大統領は、核実験禁止条約締結の可能性は低いのではとの趣旨の質問に答えて、この交渉に成功しなければ、1970年までに核兵器保有国は10に、1975年には15または20にまで増加する危険性を警告し、核実験禁止条約交渉に力を注いだ。
 キューバ危機を契機に、核兵器を持たない国々も動いた。 中南米諸国間に生じた地域非核化の訴えを背景に、メキシコが主導して1967年2月に中南米における核兵器の禁止に関する「トラテロルコ条約」が作成された (68年4月22日発効)。 その後世界各地に広がる非核兵器地帯条約の最初のものである。
 なお、1967年ウタント事務総長は「核兵器を使用した場合の影響ならびに核兵器の取得と開発が国の安全保障および経済に及ぼす影響に関する報告」 (A/6858) を国連総会に提出した。 この報告は、核廃絶に向けた努力こそが安全保障を確実にすることを強調する。 一方で、すでに核兵器を所有する五か国以外に、自力で核兵器を開発する潜在能力を有する国が六か国程度存在することも指摘している。
 このような時代背景の下に、1968年核兵器不拡散条約 (NPT) が作成された (1970年発効)NPTは、核拡散禁止とその検証措置 (保障措置) を定める一方、すべての国に原子力平和利用の権利を認め、1967年1月1日時点ですでに核兵器を保有する国を「核兵器国」として追認すると同時に核軍縮の誠実交渉義務を課している (核軍縮、核不拡散、原子力平和利用の三者間のグランドバーゲン)。 核兵器国の特権的地位を認める二重構造 (差別的条約) にもかかわらず190カ国が締結し、核軍縮、不拡散の礎石と評される。 一方、第6条に定める核軍縮の誠実交渉義務に時間枠がないこと等から、この義務の履行が進んでいない問題が指摘されている。
 核軍縮へのアプローチ
 核軍縮の方法として、次のような態様が実施され、または、議論されている。
 核兵器の数の削減 (世界の核兵器の90%以上を保有する米ソ(ロ)間の交渉による削減が中心。1980年代後半に約7万だった核弾頭が2018年現在1万4千強に減少。)
 核兵器の役割の低減 (ほとんどが議論の段階にとどまっている。)
  先制不使用 (no first use)
  単一目的 (sole purpose): 核攻撃への対抗手段としてのみ核兵器を使用。
  警戒態勢解除 (de-alerting)
  消極的安全保障 (NSA): 核不拡散義務を順守する非核兵器国には核兵器を不使用。
 核兵器の非正当化 (核兵器の非人道性の議論が最近の焦点)
  核抑止の有効性の否定
  偶発的な核兵器使用の危機
  非人道性
 核兵器の違法化
  限定的 (地理的、分野別): 非核兵器地帯条約、南極条約
   核不拡散条約 (NPT)―核拡散の禁止、核軍縮の誠実交渉義務
   部分的核実験禁止条約 (PTBT)、包括的核実験禁止条約 (CTBT)
  包括的: 核兵器禁止条約
 核兵器に依存しない安全保障のあり方の探求 (核軍縮と同時並行して、核兵器に依存しなくとも国および世界の安全保障が確実に担保できる環境・制度を整備する必要がある。)
 核軍縮・不拡散には、国・国際機関だけでなく、市民社会にも役割
 歴史を紐解けば、市民社会の国際交流と対話で、相互不信を乗り越え、国家間の緊張緩和を促した事例がある。 また、市民社会の幅広い運動の高まりによって、為政者が核軍縮を進めざるを得なくなった事例がいくつも存在する。
たとえば、1954年3月1日マーシャル諸島のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験により規制区域外に及ぶ放射能汚染が起こり、日本の第五福竜丸が被曝した。 このとき、子供たちを守るために立ち上がった東京杉並区の読書会の主婦たちの努力が呼び水となり、日本で3200万の反核署名を集め、これに連動して世界で6億もの署名が集まったという。 広範な国際世論の高まりにより米ソの核実験一時停止が実現し、その後キューバ危機を経て、1963年の部分的核実験停止条約に至る流れの源が作られた。
1970年代から80年代にかけても、市民社会の幅広い反核運動を背景として米国による中性子爆弾の欧州配備計画が廃棄された例 (1978年) や、ゴルバチョフとレーガンの間で中距離核戦力全廃条約が締結され (1987年)、実際に廃棄された例がある。 後者のケースでは、ゴルバチョフが登場し、新思考外交に基づく大胆なイニシアティブをとったことで、欧米の市民社会の運動が生かされることとなった。 政治的リーダーシップと市民社会の運動のパートナーシップの好例。 これらいずれの場合にも、広島・長崎の被爆者による被爆体験が運動を支える大きな力となっている。
 広島、長崎のあと、核兵器が実戦で使われなかった理由の一つは被爆者の方々による被爆証言と核廃絶の訴えにある。 これをさらに進めて核兵器のない世界を実現することが、私たちの課題。
 4 核兵器がなくならない理由
 核兵器がなくならないのは政治意志が欠如しているからだが、その背景となる理由として、特に重要なポイントは二つある。
 第一に、原子雲の下で起こった計り知れない人間の悲劇・核兵器の非人道性が、まだ十分国際社会の常識になっていないこと。
 第二に、核抑止という考え方。 第二次大戦後すぐ核廃絶が課題となり、国連総会の最初の決議は核廃絶に関するもの。 しかし、米ソ冷戦による核兵器開発競争で、1980年代半ばには米ソあわせて核兵器が約7万発にまで増えた。 冷戦終了後はさすがに削減されたが、廃絶には程遠い状況が続く。 核抑止という考えがこれを正当化。 核抑止とは、一言で言えば、信用できない相手に、無差別大量殺戮の脅しをかけて平和を保とうとする考え。 核抑止は、超大国の安全保障政策に根付いている。 一方、米ソ対立の危機の中でも、両国の首脳が立場を超えて歩み寄り核軍縮を実現した前例もある。 現在、核兵器が14500程度にまで減ったのは、そのため。 しかし、まだ人類の存続自体を脅かすほどの数が存在し、なおかつ、核兵器の近代化に巨額の投資をしているのが現実。 核兵器廃絶には、核抑止政策の転換が不可欠。
 5 大国の反対にもかかわらず核兵器禁止条約が採択された理由
 2017年7月7日に、国連の場で核兵器禁止条約が採択されたことは、核廃絶の観点から、画期的。 核兵器国やその同盟国の反対にもかかわらず、国連で交渉会議が開かれ、短期間で核兵器禁止条約が採択されたのは、なぜか。 一言で言えば、多くの非核兵器国と幅広い市民グループが、核兵器の非人道性と使われる危険に気づいて行動を起こしたことによる。 前項で述べた核兵器がなくならない二つの理由をくつがえす動きだ。
 この動きの直接のきっかけは、2013年と14年にノルウェー、メキシコ、そしてオーストリアで3回にわたって開かれた「核兵器の人道的影響に関する国際会議」 (International Conference on the Humanitarian Consequences of Nuclear Weapons) だ。
 これに先立つ三つの主なイニシアティブにも言及しておこう。
 まず、「核兵器の威嚇又は使用の違法性に関する国際司法裁判所 (ICJ)の勧告的意見」 (1996年7月8日)。 この中でICJは、核兵器の威嚇または使用は原則的に国際法違反とし、次のように述べている。 「核兵器の威嚇または使用は武力紛争に適用される国際法の規則、特に国際人道法上の原則・規則に一般的には違反する。しかし、……国家の存亡そのものが危険にさらされるような、自衛の極端な状況における核兵器の威嚇または使用が合法か違法かについて裁判所は最終的な結論を下すことができない。」
 次に、オバマ大統領のプラハ演説 (2009年4月5日)。 「米国は、核兵器国として、また核兵器を使用した唯一の国として、行動する道義的責任がある。」 「今日私は、核兵器のない世界における平和と安全保障を追求するという米国のコミットメントを、明確かつ確信をもって述べる。」
 そして、ケレンベルガー赤十字国際委員会 (ICRC) 総裁演説 (2010年4月20日)。 「赤十字国際委員会は、核兵器のいかなる使用も国際人道法に合致するとみなすことは不可能であると考えます。」と述べて、ICJ勧告的意見で合法か違法か判断できないとした自衛の極端な状況という「穴」を埋める趣旨の発言。 (政治的中立を求められるICRC総裁のこの発言は人道的観点のものと整理された。それが可能だった背景には、核超大国の最高指導者オバマ大統領が行ったプラハ演説の存在があった。) このICRC総裁演説を直接の契機に、スイス政府が、2010年のNPT再検討会議で、核軍縮の人道的アプローチを提案。 その後「核兵器の人道的影響に関する共同声明」が累次発表され、これらを踏まえた「核兵器の人道的影響に関する国際会議」の開催に至った。 特に、2014年開催のメキシコ会議とオーストリア会議では、被爆者に証言の機会が与えられ、被爆証言は参加者に大きな衝撃を与えた。 核兵器が実際に使われることはないとの思い込みから核廃絶に無関心だった参加者も、深く心を動かされ、さらに、会議の中で、核兵器に関する事故が大小合わせて1000回以上あり、核戦争瀬戸際の危機が10回以上あったことを学び、広島・長崎は自分たちと無関係の昔話ではなく、事故・誤算やテロで誰もが被害者になりうると実感した。 この結果、今まで、核軍縮は米ロ間の問題だと考えていた非核兵器国の間にも当事者意識が生じ、核軍縮交渉に参加する権利を主張しだした。 NPT第6条は、すべての締約国に核軍縮交渉義務を課しており、これらの国々の主張には法的根拠もある。 核兵器の非人道性と事故や誤算で使われる危険の認識の高まりが育んだ非核兵器国の間の核軍縮交渉への当事者意識は、核兵器の速やかな法的禁止を求める動きへと発展していった。
 6 核兵器禁止条約について
 この条約は、兵器の禁止という意味で軍縮条約の系譜に属するが、それ以上に、人権・ 人道の観点から、人類の安全保障を目指すものだ。 そこに、この条約が、核兵器の禁止を核兵器保有国だけに任せるのではなく、全世界が取り組む課題ととらえる理由がある。
 核兵器の法的禁止へのアプローチとして、主に四つの方法が議論されてきた。
 (1) (包括的) 核兵器禁止条約 (Nuclear Weapons Convention) (作成と実施に核兵器国が参加することを前提とし、核兵器を全面的に禁止する規定のみならず、禁止の管理のための検証措置等の諸措置もあわせて定めるもの)
 (2) 枠組み条約 (Framework Agreement)
 (3) ブロック積み上げ方式 (Building Blocks Approach)
 (4) 核兵器禁止条約 (Ban Treaty) (核兵器国に当面核兵器禁止の意図がないとの判断から、核兵器国抜きでも全面的かつ無差別な禁止を法的に宣言することを優先。)
 平和首長会議は、(1)の包括的条約を推進してきたが、多くの非核兵器国と市民社会の諸団体の中に核兵器禁止の早期実現への願望が高まる一方、核兵器国が条約交渉に参加しない現実を踏まえ、(議長、国連事務局、主要条約推進国等と協議の上) 条約交渉会議において、禁止先行のアプローチに賛同するとともに、将来核兵器国も条約に参加し、(1)のタイプの条約に育ちうるよう「発展条項」 (枠組みだけ定め、検証条項の具体化を(核兵器国も交える)将来の議論に委ねる趣旨の規定をおく等) を入れ、条約規定を将来補強するために締約国会議を活用することなどを提案した (A/CONF.229/2017/NGO/WG.15)
 2017年7月7日に採択された核兵器禁止条約 (Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons)(以下「禁止条約」) は、(4)の方式を基礎とし、禁止規定を明確に定めた上で、将来、禁止の管理に関する規定も補強して、核兵器国をも拘束する包括的で実効性のある(1)のタイプの条約に発展することを可能とする規定を含んでいる。 これは、一定の原則を定めた上で、将来、状況に応じて追加規定を補強する(2)の枠組み条約の要素を含むとも解釈できる。
 「禁止条約」の内容については、別の章で詳述されるので、ここでは、この章の議論に関連のある範囲で触れるにとどめたい。
 まず、前文は条約の背景・趣旨の理解に重要であり、特に以下の点は、採択の背景と条約採択後の展開を考える上で示唆的である。
核兵器の非人道性と使用のリスクに対処するため核兵器廃絶が必要と明記。
ヒバクシャを、被害者および核兵器廃絶への貢献者として二重に特記。
法的禁止は、核兵器の不可逆、検証可能、透明性のある廃絶を含む核兵器のない世界への重要な貢献と位置づけ (禁止の先に廃絶を目指す一層の努力が必要と明記)
既存の法規範 (国連憲章、国際人道法、軍縮条約、NPT、CTBT、非核兵器地帯条約、慣習法等)を尊重・強化する。
「禁止条約」を作るのは、核軍縮の停滞、核依存の継続、核の近代化等への憂慮に基づくと説明。(核兵器国等の反対に抗して「禁止条約」を作った理由である。)
 条約本文についても若干コメントしておきたい。
 「禁止条約」は、第1条 (禁止)で、核兵器を包括的 (開発、取得、貯蔵、使用、威嚇等のすべての局面)かつ無差別 (すべての締約国)に禁止する。 一方、前文にもあるとおり、この条約が既存の国際法規を補完・強化するもの (特にNPTについては、核軍縮・不拡散の礎石として重視・尊重)で、核廃絶に向けた一里塚と自らを位置づける観点から、禁止が核廃絶への実効性を持つよう第12条 (普遍性)(核兵器国を含む) すべての国の参加を奨励し、いくつかの条文で、そのための工夫をしている。 例えば、核軍縮条約には、義務の履行を確保するため「検証」規定が不可欠だが、核兵器国の参加なしに信頼できる検証措置の具体規定は作成できない。 このため、平和首長会議の提案に即した形で「禁止条約」は、枠組み条約の手法を採用している。 すなわち、第4条に定める核廃棄義務の「検証」は概略規定にとどめ、締約国会議に関する第8条に、具体的措置の検討および決定を締約国会議の任務の一つとして明記している。 締約国会議には、締約国でない国や国際機関、NGOもオブサーバーとして参加できる。 したがって、加盟前の核兵器国や核の傘下国も議論に参加できる。
 7 核兵器の廃絶に向けてこれから何をすべきか
 「禁止条約」はできた。 核保有国や核の傘の下にある国々は、安全保障上の考慮が必要として「禁止条約」に反対するが、彼らが核軍縮への唯一現実的な方途とする「ステップバイステップ」の積み上げによる措置は、近年一向に進んでいない。 一方、核使用のリスクと非人道性の認識は、ICANのノーベル平和賞受賞が示すように、一層広く国際社会に共有され、核兵器の存在は安全保障上の重大懸念となっている。 「禁止条約」推進国と反対派の国々との間に大きな意見の対立がある中で、核兵器廃絶に向けて、何をすべきか。
 平和首長会議は、核兵器をなくすために、立場を超えた対話が不可欠だと考える。 核抑止が、相互不信を背景に核の脅しで平和を保とうとするものならば、この相互不信を相互理解、相互協力へと変えていく粘り強い努力なしに、根本的な解決はできないからだ。 また、核軍縮措置を対話によって進めることは、それ自体信頼醸成措置であり、相互理解、相互協力の促進に資することも指摘しておきたい。
 核兵器の廃絶に向けて為政者がすべきこと
 次のステップは明確だ。 核兵器国や核抑止に依存する国と、「禁止条約」を推進する国々が真剣な対話を重ねて、核兵器をなくすために何をすべきか一緒に考え、実行すること。 また、そのためには、同時並行して、核抑止に依存しない安全保障のあり方を模索する必要がある。
 共通点を探る手がかりとして、条約推進派も反対派もNPT第六条に定める核軍縮の誠実交渉義務を負うことを強調したい。 このような手がかりを基礎に立場を超えて対話し、知恵を出しあい、まずは実行可能な核軍縮措置を実行に移してもらいたい。 そこから次の展開も見えてくるはずだ。 このような対話は、すでに始まっている。 例えば、広島出身の岸田外相 (当時) が立ち上げた「核軍縮の実質的進展のための賢人会議」 (核兵器国、中道国、核禁推進国の有識者16名で構成) が2018年3月に河野外相に提出した提言は、核兵器国の専門家も含むコンセンサスで採択されたものだが、その提言は「核抑止は、ある環境下においては安定を促進する場合もあるとはいえ、長期的な国際安全保障の基礎としては危険なものであり、したがって、すべての国はより良い長期的な解決策を探求しなければならない。」 (提言25後段) とも述べる。 核政策に詳しい核兵器国の有識者も核抑止の危険性を認識し始めている証左だ。
 核抑止からの転換は必要かつ可能なはずだ。 環境にしろ、エネルギーにしろ、現在の大問題は違いを超えた地球規模での協力が必要だからだ。 また、相互不信や排他性を原因とする現在の紛争 (テロや難民問題を含む。) の根本的な解決に、核抑止は役に立たないからだ。 そればかりか、核抑止は失敗する恐れがある。 武力による抑止という考えは大昔からある。 短期的には成立しても、長い目で見ると、ほぼ必ず失敗して武力衝突に終わると歴史が示している。 核抑止が失敗したときの想像を絶する人類の悲劇は決して受け入れることができない。 さらに、核抑止の考えは伝染する。 核兵器拡散の危険だ。 イラクやリビアの実例を見てきた北朝鮮が、金王朝を守るために、核兵器にしがみつくのは核抑止の考えそのもの。 これも核抑止という考えの根本的な欠陥の一つだ。
 核抑止を超克するためには、相互不信を相互理解に変える努力が必要だ。 北朝鮮やウクライナの問題も「対決的安全保障」を「協調的安全保障」へと転換する具体例となりうる。
 私たちは、核兵器国の責任ある指導者がこの事実を理解すると信じている。 過去の核軍縮は、国際緊張の極まる中、違いを超えて歩み寄る為政者のリーダーシップで実現されてきた歴史があるからだ。
 例えば、ケネディ大統領は、1962年10月のキューバ危機の後、いきづまっていた核実験停止の条約交渉に全力を尽くした。 記者から、実現可能性のない核実験禁止条約に努力する意味があるかと問われて、ケネディは、もしこれに失敗したら、1975年には15から20の国が核兵器を持つようになるかもしれない。 これを避けるためにどうしてもやり遂げなければならないと答えている。 そして、1963年6月、アメリカ人の多くがならず者国家と考えていたソ連と対話する必要を説き、人類の共通利益のために米ソが協力する必要を訴える、有名な「平和の戦略演説」をアメリカン大学で行った。 これを聞いたフルシチョフは感動して、冷戦時ソ連はアメリカのプロパガンダを恐れて報道規制をしていたにもかかわらず、この演説はロシア語に翻訳され、何の制限もなくソ連国民全てが知ることができるようにしたという。 ケネディ演説のわずか2ヵ月後の8月、米ソ主導で部分的核実験禁止条約が成立した。
 また、レーガン大統領は、当初、ソ連を悪の帝国と呼び、莫大な投資をしてアメリカの核兵器を増強し、米ソ対立を深刻化させた。 しかし、その過程で、万が一核兵器が使われた場合に起こる深刻な人類の悲劇を理解するに至り、レーガン政権の二期目の就任演説 (1985年1月) では、核兵器を地球からなくすことを目標に掲げるほどに変化。 やがて、ゴルバチョフとの間で核軍縮を真剣に話しあうようになった。 実際に、当時使われる恐れのあった中距離核戦力 (INF) を全廃する条約をロシアとの間で結んでいる (1987年)
 これらの実例は、対立が極まる危機の時にこそ、違いを越える指導者のリーダーシップで核軍縮が実現したことを示している。 危機が深まる現在も指導者の果敢なリーダーシップが求められている。 リーダーの責任は重大。 だからこそ、私たちは、幅広い市民社会の声を結集してリーダーのイニシアティブを後押ししていきたい。
 各国に具体的に期待すること
 ● すべての国: 被爆地を訪問して認識と決意を新たに。
 ●核に依存しない非核兵器国: 核兵器禁止条約の速やかな署名・批准による条約の早期発効確保。他国への働きかけ。
 ●核の傘下国: 核兵器のない平和な世界実現に向けた核兵器国への働きかけ。
条約推進国および市民団体との対話。
締約国会議へのオブザーバー参加。
核兵器禁止条約締結。
 ●核兵器保有国: 具体的核軍縮措置の実施 (最大のものは米ロ核軍縮)
核兵器不使用のための信頼醸成措置強化。
条約推進国および市民団体との対話。
核廃棄の検証措置について具体的検討推進。
締約国会議へのオブザーバー参加。
核兵器禁止条約締結 (NPT第6条に基づく独自の禁止条約作成も可。)
 核兵器廃絶に向けて、市民社会にできること
 ローレンス・ウィットナー著『核爆弾に抵抗して:世界の核軍縮運動小史』は、市民社会の運動が核軍縮に果たしてきた役割を次のように要約している。
 ▶ 特に大国の為政者には、核軍縮政策を採用する意図はない。 市民社会の圧力で不本意ながら受容している (圧力が不要だった少数の例外には、ジャワハルラル・ネルー、オルフ・パルメ、ミハエル・ゴルバチョフ等がある)
 ▶ 主権国家が対立する世界で、国の指導者は、核兵器を戦争の兵器と考え戦争の備えを怠らないが、市民運動と強化された国連が協同すれば戦争に走りがちな国を制御できる。
 ▶ 核軍縮運動の歴史を検証するとき、人間の可能性に畏敬の念をいだくことができる。
 そして核軍縮に市民社会の運動が貢献した実例を数多く示し、その一つに、(第3節で紹介した) 1954年3月1日のビキニ環礁での核実験による第五福竜丸被爆事件が引き金となり同年5月東京杉並区の読書会の主婦たちが始めた核実験反対署名運動が、日本全土で3千万人強の署名を集めた例をあげている。 この運動は、55年8月第1回原水爆禁止世界大会 (広島)、55年9月原水協結成、56年8月日本被団協結成など、反核運動の組織化にもつながっている。
 この運動を指導した当時の杉並公民館長安井郁 (故人) や関係者によると、署名運動の成功は、政治性を排し、誰もが共感できる「すべての人の命を守るため」という単純かつ普遍的な趣旨を徹底したところにある。 超党派の平和首長会議が、被爆者の「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」という普遍的な訴えを基盤に運動を展開する理由にも共通する視点だ。
 核廃絶を目指し、また、世界に相互理解と相互協力を促進するため、一般市民が参加できる様々な活動形態がある。
 ▶ 被爆証言、伝承活動
 ▶ 被爆体験の記録 ジョン・ハーシー『ヒロシマ』、蜂谷道彦『ヒロシマ日記』(米国で出版)、長田新編『原爆の子』、佐々木禎子さんと千羽鶴の記録
 ▶ 被爆事跡の保存 原爆ドーム、被爆建物、被爆樹木
 ▶ 文学 井伏鱒二『黒い雨』、峠三吉『原爆詩集』、原民喜『夏の花』、栗原貞子、太田洋子、エディタ・モリス「ヒロシマの花」
 ▶ 映画 「原爆の子」「ヒロシマ」「ヒロシマ・モナムール」「渚にて」
 ▶ 音楽 ムスタキ「ヒロシマ」、ヴィニシウス・ヂ・モライス「ヒロシマのバラ」
 ▶ 絵画 丸木位里・俊「原爆の図」、四国五郎、被爆者による被爆の絵
 ▶ 原爆展
 ▶ 署名運動:ヒバクシャ国際署名
 ▶ 違いを超える国際理解・国際協力
 核廃絶の実現には、為政者のリーダーシップと幅広い市民社会の協働が必要だ。 為政者のリーダーシップを主導するのは立場を超えた幅広い市民社会の声であり、その原動力こそ被爆者の被爆証言と平和への訴えだ。
 国や地方自治体と共に、女性、青年、法律家、宗教指導者、医療従事者、企業家、研究者、教育者、芸術家、スポーツマンなど市民社会の多様な構成員が力を合わせれば、時代を変革できる。 私たち平和首長会議も幅広い市民社会のパートナーと共に国境や宗教、文化の違いを超えた相互理解・協力の促進に全力を尽くす所存だ。 誰もが参加可能な、この大切な仕事を一緒にやり遂げようではありませんか。
≪参考文献≫
核兵器禁止条約のテキスト
・英語正文 https://undocs.org/A/CONF.229/2017/8
・外務省による暫定的な仮訳 https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000433139.pdf
・反核法律家協会(JALANA)の暫定和訳 http://www.hankaku-j.org/data/01/170720.pdf
黒澤満(2014)『核兵器のない世界へ:理想への現実的アプローチ』東信社
秋山信将編(2015)『NPT 核のグローバル・ガバナンス』岩波書店
Mukhatzhanova, Gaukhar (2017), The Nuclear Weapons Prohibition Treaty: Negotiations and Beyond, Arms Control Today, September 2017.
 https://www.armscontrol.org/act/2017-09/features/nuclear-weapons-prohibition-treaty-negotiations-beyond
核兵器禁止条約交渉会議第一回会合での平和首長会議スピーチ和訳(平和首長会議事務総長の提案)2017年3月29日国連本部(ニューヨーク)
 http://www.mayorsforpeace.org/jp/whatsnew/news/data/2017/MfP_speech_in_Mrch_2017_Ja.pdf
核兵器禁止条約交渉会議開催に当り発出された2017年3月14日付平和首長会議公開書簡(和訳)
 http://www.mayorsforpeace.org/jp/statement/openletter/data/MfP_Open_Letter_March2017_jp.pdf
Wittner, Lawrence S. (2009), Confronting the Bomb: A Short History of the World Nuclear Disarmament Movement, Stanford, Calif.: Stanford University Press.
 http://www.sup.org/books/title/?id=9646
「核軍縮の効果的進展のための賢人会議」提言(英文および仮和訳)
 https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000403717.pdf
平和首長会議ウェブサイト http://www.mayorsforpeace.org/jp/index.html
〔本文は 『広島平和研究所ブックレット 第6巻』 (広島市立大学 広島平和研究所 企画委員会/2019年3月27日 第1版発行)への寄稿です。〕
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