八月六日
国民学校2年生の私は爆心地から北へ2.4キロの牛田町で被爆しました。
5年生の兄は学童疎開、中学生の兄は学徒動員により広島駅の北で農作業中でした。
父が「何か嫌な予感がする。今日は学校に行くな」というので、私は一人ぼっちで家の北側の道路にいました。
突然目もくらむような閃光に包まれ、
続いて襲ってきたすさまじい爆風により路上に叩きつけられました。
近所の藁屋根は瞬時に燃えだしました。
家に戻ると家の中のすべては破壊され、天井や屋根瓦は吹き飛ばされ、総ガラス張りの戸や窓のガラスは数百の破片となって壁や柱に突き刺っていましたが、幸いにも自宅にいた両親や兄弟たちは軽傷で済みました。
そのすぐ後に、雨が降りました。雨がいつ降り出したかは正確には分かりません。多分被爆後、ほどなくしてだと思います。
外に出た私の服を濡らしたのはねっとりとした灰色の「黒い雨」でした。
その雨は家中の壁に何本もの太い灰色の線を残しました。
避難してきた人達
やがて顔や手に火傷をした兄が帰ってきて、「広島は火の海だ」と言うのを聞いた私は、すぐ側の神社の高台から街の様子を見ようと外に出ました。
するとボロボロの衣服で包まれ、火傷を負い大怪我をした人々が避難してくる列に遭遇しました。
頭髪は焼け焦げ、煤で汚れた顔や唇は腫れあがり、血まみれになった何人かの人達の皮膚は指先から垂れさがっていました。
幽霊のような無言の列の大半は軍人と学生で、やがて道端や神社に続く石段の上で、ある者はうずくまり、ある者は横たわり、いたるところが瀕死の重症者で埋め尽くされました。
人々が押し寄せて来たのは、すぐ側の神社のあたりが応急の救護所になった為だと後で知りました。
しかしそこには医者らしい人の姿は無く、バケツを持った軍人が一人、刷毛でチンク油(*)の様なものを負傷者に塗っていました。
それから毎日、重傷者達の何人かが亡くなり、臨時の火葬場となった公園に運ばれて行きました。
この公園で父と警防団の人達は700人以上の犠牲者を荼毘に付しました。
「水をください」
突然、歩いていた私の足首を路上の誰かが掴みました。
「水をください」力のない声が足元からするのです。
煤と血で覆われた女の人が私に必死にしがみついていました。
「水、水」、息絶え絶えの水を求める声が続きました。
走って家に帰った私は自宅の井戸水を汲み、瀕死の人達に運びました。
水を飲んだ直後に何人かの人がガックリと私の目の前で息絶えました。
驚愕し恐怖に震えた私は水をあげたことを後悔しました。
当時「重傷者に水をやるな」と言われていたことを幼い私は知らなかったのです。
その日のことは誰にも決して言うまいと思いました。その時の記憶は何十年たった後までも悪夢として残りました。
半壊した私の家は親戚の人、友人、隣人などの負傷者で溢れていました。
姉は叔父の背中に突き刺さったガラスの破片を泣きながらピンセットで取り除いていました。
家の中は吐き気を催すような血、膿、泥、焼け焦げた頭髪、汚物の臭いで充満していました。
すぐ側の裏山にも火の手があがり、広島は一晩中燃え続けました。
壊滅状態の街を見下ろす
8月7日、神社前の高台から広島の街を見下ろしました。
見渡す限りの焼け野原に百貨店の福屋と旧中国新聞社やいくつかの建物の残骸が見え、その向こうに見えた海は手が届くほど近くに感じられました。
遺体処理の煙がすぐ近くの公園から登っており、時折死体を焼くにおいが流れて来ました。
それから毎日、私は石段を登っては広島の街を見続けました。
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