和文機関紙「平和文化」No.190, 平成27年11月号

被爆体験記
「ヒロシマが昔話にならないように」

本財団被爆体験証言者 山本 玲子
山本玲子
プロフィール 〔やまもと れいこ〕
1938年(昭和13年)生まれ。 1年生だった7歳の時、爆心地から4.1km離れた国民学校の校庭で、飛行機を見上げていた時に被爆。
戦後は損害保険会社勤務を経て、子育てに専念。 1980年から児童館に非常勤職員として勤務。 2005年よりヒロシマ ピース ボランティアとして活動。

校庭で被爆
 昭和20年、私の通学していた国民学校は広島市に隣接(りんせつ)していましたが、郡部でしたので、集団疎開(そかい)はありませんでした。 夏休みは8月10日頃からの予定でした。
 8月6日は月曜日で、暑い朝でした。 私は学校につくと、教室にカバンをおいて校庭に遊びに出ました。
 「飛行機だ‼」「B29だ‼」とのさわぎ声に空を見上げると、2機の飛行機が朝日に銀色に輝かがやいて、上下に動いています。
 「ああ、きれい‼」と思った瞬間(しゅんかん)、ピカッと光り、“太陽が落ちた”と思いました。
 校庭は、まきあがる土煙(つちけむり)で黄土色になり、夕暮れのように暗くなりました。 逃げ惑(まど)う児童は、ぶつかって倒れたりしています。 私も友達といっしょに逃げました。
 だんだん明るくなってきて、周囲が見えるようになると、私は裏門から出て、近くの民家の縁側(えんがわ)の下にうずくまっていました。 まわりには10人くらいの上級生がいました。
 上級生が校庭に戻っていったので、後をついて戻りました。 校舎は2階建てのまま建っていましたが、瓦(かわら)は落ちて、窓もガラスも飛び散っていました。 教室に入ろうとしましたが、廊下(ろうか)の天井が落ちていて入れなかったので、家に帰りました。
 自宅は、2階の一部がねじれ、雨戸や障子(しょうじ)も吹きとび、タンスや戸棚(とだな)も倒れていました。 中に入れないので、妹と縁側で遊んでいると、空が暗くなり雨が降り出しました。 猫のタマがのっそりと庭に出て行きました。 収穫(しゅうかく)した米や麦をネズミが荒らすので、家ではネズミ退治に猫を飼っていたのです。 タマは白と黒のブチ模様でしたが、雨にうたれると白い毛が黒くなりました。 黒い雨なんてめずらしいので、私も外に出て両手で雨を受けました。 ねっとりとした不思議な黒い雨でした。
「黒い雨の染みが残る体操シャツ」(松宮豊子氏寄贈/広島平和記念資料館所蔵)

「黒い雨の染みが残る体操シャツ」
松宮豊子(まつみや とよこ)氏寄贈/広島平和記念資料館所蔵
西高等女学校専攻科だった久保田(くぼた)豊子さん(当時16歳)は、学校の校舎2階で被爆した。 このシャツは被爆時に着ていたもので、避難するときに浴びた黒い雨の染みが残っている。

おじさんのやけど
 下着姿の知り合いのおじさんが、布団を1枚かついで庭に入って来て、「水、水をくれ‼」と縁側に倒れ込みました。 ひどいやけどで、もう自分では動くことも出来ません。
 祖母と母が2人がかりで布団に寝かせ、水を飲ませると、黄色い水みたいなものを吐きます。 垂れさがった腕の服を母がハサミで切り取ると、それは服だけではなく、肩や首、腕のやけどの皮膚もいっしょにくっついたものでした。 やけどに油をぬりましたが、足りないので、胡瓜(きゅうり)をすりおろして貼り付けました。 いつのまにか傷に無数のハエがたかりました。
 おじさんは熱が高く、8月7日の昼過ぎに亡くなりました。
みんなの力で平和を
 戦後は食料難で苦しい生活でした。 家は農家だったので、粗末(そまつ)なものでも食べる物はありましたが、家を焼かれ何も無くなった親類もいっしょに暮らしたので、大人数での生活は大変でした。
 秋には田んぼでイナゴを取るのが日課でした。 イナゴを網でとり、一升瓶(いっしょうびん)にいれ、一日おいて汚物を吐かせ、焼いたり乾煎(からいり)したりして食べました。 お弁当が必要な日も、みんな昼には家に食べに帰っていました。 芋粥(いもがゆ)や、すいとん汁が主食だったので、お弁当にして持っていけなかったのです。
 戦後10年過ぎた頃から、白血病(はっけつびょう)などで亡くなる人が多くなりました。 集団疎開がなかった国民学校の一、二年生は、病気になったり、身体の調子が悪く、自殺した級友もいました。
 戦争は人間が始めるものです。 人類と地球を守っていくためには、戦争をしてはいけませんし、核兵器を絶対に使用してはいけません。 核の無い、平和が続くように、みんなの力で守っていけたらと願います。
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