プロフィール 〔とりこし ふじお〕
昭和6年生まれ、85歳。
広島市内の崇徳(そうとく)中学校3年生だった14歳の時、爆心地から2km離れた自宅前の畑で、空を見上げたときに被爆。
戦後は小学校教師として勤務。
退職後、語り部として活動。
ひろしまを語り継ぐ教師の会副会長。
全日本ハーモニカ連盟理事。
家の前の畑で被爆
原爆当時、私が住んでいた所は山手
(やまて)町という小さな町で、家は山の麓
(ふもと)のやや小高い所にあり、前方には山陽線が走っていました。
1945年、戦況がますます厳しくなり、私が中学3年生になった途端、学校での授業はできなくなりました。
当時の中学校、女学校の生徒は、軍需工場で生産に携
(たずさ)わらされたり、市内の建物疎開
(たてものそかい)の作業にも駆り出されたのです。
私は祇園
(ぎおん)の三菱
(みつびし)重工業へ行くことになりました。
8月4日(土)、健康診断があり、私は脚気
(かっけ)というビタミン不足による病気だと診断されたので、6日(月)に母と病院へいくことになりました。
8月6日は朝からとても良いお天気でした。
奥の部屋で母と一緒に朝食をとっていると、かすかな爆音が聞こえました。
当時、私たちは飛行機のエンジン音を聞き分ける訓練を受けていたので、即座にB29だと分かりました。
私は食事を済ませると外に出て、家の前の畑に立って上空を一生懸命に探しました。
姿は見えませんが、やがて爆音は東北の方角へ遠ざかって行きました。
市内の建物をぼんやり眺めていた、ちょうどその時、真正面の空中に何か黒っぽい塊が浮かんでいるのが見えました。
次の瞬間、突然「パッ」とはじけ、物凄
(ものすご)い光の球に変わったのです。
閃光
(せんこう)の中から、どろどろに溶けたオレンジ色の溶岩のようなものが流れ出て、そのまわりから黄土色の光が空一杯に広がり、目の前が急に明るくなりました。
「異様な閃光」
(市民が描いた原爆の絵
石谷龍司(いしがい りゅうじ))
突然、顔に物凄い熱風が覆いかぶさってきました。
思わず瞼
(まぶた)を閉じ、その場へしゃがみこみました。
そして立ち上がりかけた時、周りにザーッという物凄い風が巻き起こり、体が宙に浮いたように感じ、何かにぶつかりました。
それっきり全く覚えがありません。
突然の惨状
気が付くと、ぶつかったのは、家の前に置かれていた大きなセメントの防火用水槽でした。
周りは煙か埃
(ほこり)のようなものが立ち込め、全く何も見えません。
突然の出来事で何が何やらさっぱり分からず、しゃがみ込んだまま呆然
(ぼうぜん)としていました。
だんだんと意識がはっきりすると、腕や顔にじりじりと焼け付くような痛みが走ります。
見ると、腕の皮膚が真っ赤に焼け爛
(ただ)れています。
顔や胸の辺りも同じような痛みです。
あまりの痛さに、水槽の中に腕をつけたり、顔に水をかけたりしましたが、痛みはひどくなるばかりでした。
しばらくすると、遠くの方で私を呼ぶ母の声が聞こえました。
私は「お母さん、ここにいるよ」と大声で呼び、母は砂埃の中で私の声を頼りにやって来て、「どうしたの?」とびっくりした様子でした。
「お母さん痛いよー。熱いよー。」私は母の膝
(ひざ)にもたれかかって泣き崩れました。
母は私を抱きかかえるようにして近くの防空壕
(ぼうくうごう)へ運び、崩れた家から布団を持って来て寝かせてくれました。
痛みを我慢しているうちに息苦しくなり、意識も朦朧
(もうろう)とし始めました。
しばらくすると、激しい雨が降ってきて壕の中へ流れ込み、布団はびしょびしょになりました。
やがて雨が上がり、母が私を外に連れ出すと、周りは沢山の人でごった返していました。
付近で停止した山陽線の列車から逃げて来た人たちや、中広
(なかひろ)町の方からの避難者もいたようです。
壊れかけた私の家にどんどん人が入って来ました。
みんな、どす黒い顔をして、着ているものは焼かれ、肌は丸出しでボロボロです。
「水、水を下さい」、「苦しいよ―」、「助けてー」、「痛いよー」と、辺りは助けを求める声でいっぱいです。
朦朧とした意識の中で
夕方、私は近所の人に連れられて、負傷した人たちと一緒に軍隊のトラックに乗せられました。
着いたところは廿日市の病院でした。
中はけが人でごった返し、部屋中が酸っぱい匂
(にお)いでいっぱいだったことを覚えています。
私は、顔や腕の火ぶくれをハサミで切り取り、小麦粉に酢を混ぜたものを塗って包帯で巻くという応急手当を受けたそうです。
家に帰ってからの数日間は意識不明の状態が続きました。
意識が戻ってからも高熱は続き、包帯から血膿
(ちうみ)が滲
(にじ)み出て、苦しい毎日でした。
やがて、周りからいろいろな情報を耳にするようになり、日本が戦争に負けたことや、建物疎開に出た級友が全員亡くなったことも知りました。
8月4日に会った友人の顔が次々に浮かび、何とも言えない寂しさでいっぱいでした。
「真の平和」を願って
被爆から70年以上が過ぎ、20歳が限界だろうと医者から言われて来た私が、今年1月で85歳を迎えました。
改めて命の不思議さにふれながら感謝と幸せで一杯です。
命って本当に不思議な宝だと思っています。
原爆のことは、もう忘れてしまいたい心境ですが、鏡を見るたびに、のどの部分に焼きついた熱線の跡が見えます。
原爆が憎い。
もし、原爆が落とされていなかったら、被爆していなかったら、きっと人生も変わっていたかも知れません。
地球上に住む人達が、何の憂
(うれ)いもなく平和の中に過ごせればどんなに幸せか。
戦争によってかけがえのない命が犠牲になるようなことがあってはならない。
ひたすら「真の平和」を願ってやみません。