和文機関紙「平和文化」No.194, 平成29年3月号

被爆体験記の執筆をお手伝いしています

 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、被爆者の高齢化が進むなか、「被爆の記憶を体験記に残したいけど、自分ひとりでは文章にまとめられない」という方のために、被爆体験記執筆補助事業を行っています。 この事業は祈念館職員が自宅等に出向いて、被爆体験を聞き取り、体験記としてまとめるもので、平成18年度から実施し、平成27年度までに116人の聞き取りを行いました。 平成28年度は13人の聞き取りを行い、順次、被爆体験記を完成させ、館内で公開しています。 また、体験記は企画展やホームページ掲載、多言語化、公的機関への提供等に活用しています。
 被爆の体験は昨日のことのように脳裏(のうり)から離れることがなく、応募者は被爆当時の悲惨さを記憶の奥から絞しぼり出すように語られます。 今まで心の奥底に秘めていた思い出したくない体験を初めて話される方も多く、特に若い世代に体験を伝え、二度と繰り返してはならいという強い使命感を持って、応募されています。
 今回、執筆をお手伝いさせていただいた体験記から、藤本紀代子(ふじもと きよこ)さんの体験記(抜粋)をご紹介します。
 藤本さんは、4歳8か月の時に東観音町(ひがしかんおんまち)の自宅(爆心地から約1.2km)で被爆しました。
聞き取りの様子
聞き取りの様子
……母と祖母は片付けを、幼い私は軒下でままごとをしていました。 突然、ピカッと光った途端に、2階建ての家が一瞬で潰れました。 何が起きたか全く分かりません。 母が、崩れ落ちた屋根を踏みながら、「紀代ちゃん、紀代ちゃん」と私を捜しに来てくれました。 母は家の裏の納屋に薪を運んでいる最中だったため、家の下敷きにならずに済んだそうです。 周囲は真っ暗となり、しばらくすると一帯が燃え始めました。 母が「あんた、よう生きとったね。よう瓦の下敷きにならんかったね」と言い、私は母にしがみつきました。 火が迫り来る中、誰かの「川へ行こう」という声を頼りに必死で逃げました。
 母におんぶされて逃げる途中、家の下敷きになって頭と手だけが外に出た状態の男性が、「奥さん助けて!」と言いました。 私は、「お母ちゃん、助けてくれ言いよる」と母に言いましたが、既に火に包まれています。 「お母ちゃん助けてあげんのんね」と言うと、助けたいけど自分たちが逃げないとどうすることもできないから、とにかく目をつぶっているよう言われました。……
 当館では、この事業によるものを含め、現在、約135,000編の被爆体験記を公開しています。

(原爆死没者追悼平和祈念館)

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