和文機関紙「平和文化」No.194, 平成29年3月号
平成29年追悼平和祈念館企画展

原爆体験記 -ヒロシマ原点の記録 その2-

期 間  平成29年1月1日~12月29日
場 所  追悼平和祈念館 地下1階 情報展示コーナー
入 場  無料
「原爆体験記」
「原爆体験記」
(昭和25年(1950年) 広島平和協会)
 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、被爆の実相を伝えるため、毎年テーマを定めて企画展を開催し、被爆体験記や追悼記などを展示しています。
 被爆から5年後の昭和25年、広島市は核兵器のない平和な世界を築こうと初めて市民から原爆体験記を募集し、多数の応募がありました。 まとめられた「原爆体験記」は国の内外に広く配布し、原爆の悲惨さを訴えるはずでした。
 日本はまだ占領下にあり、朝鮮戦争の勃発による東西冷戦の激化を受け、8月6日の平和祭はGHQの指示で直前に中止となり、「原爆体験記」も広く配布されず倉庫に眠ったままとなりました。
 被爆わずか5年後に書かれたヒロシマ原点の記録である生々しい記憶を基に記された体験記から、戦争や原爆の悲惨さ、平和への思いを伝えます。
 今回、展示している被爆体験記の中から、前田正弘(まえだ まさひろ)さんと北山二葉(きたやま ふたば)さんの体験記(抜粋)をご紹介します。
 前田さんは当時、7歳。 学校の代わりとなっていた光隆寺(こうりゅうじ)で被爆しました。
・・・なんと運の良いことだろう。 こんなに大そうどうの最中に丁度、動員から逃げ帰って来ていたお兄さんに出合った。 僕はやけどをして頭が大きくはれていたので、お兄さんは僕とは気がつかなかったらしく、僕が「お兄ちゃん」と呼んでも「正弘か」と問いかえされた。 その時僕はうれしくてうれしくてたまらなかった。 そこからはすぐ背負ってもらって逃げたが、けがをしているせいか頭が痛かった。・・・
 北山さんは、当時、33歳。 建物疎開の作業中に被爆し、親戚(しんせき)の家に逃れましたが、そこで生死の境をさまよいます。
・・・傷らしい傷もなかった夫は帰って3日目の13日の朝血を吐きながら、明日をも知れぬ妻と3人の愛し児を残して淋みしく死んでいった。 ああ思へば16年連添った夫婦でありながら妻に死水もとって貰へづ逝った夫、仕事のために生れて来た程仕事のすきだったのにこれから多くのなすべき事を残して逝った夫の気持ちを考へるとたまらない気がする。
 私の枕元に「お母ちゃん」と云って坐った坊やの声、あの時の血の出るやうな悲しさは今思ひ出しても涙があふれて来る。 「ああ哀れな子たち。私は死んではならない、この子たちを孤児にする事が出来るものか」私は一心に夫の霊に祈った。 何度も何度も絶望を宣告されながら私は不思議に一命をとり止める事が出来た。・・・
 体験記の続きは、館内の企画展会場と体験記閲覧室で読むことができます。 また、当館のホームページに3人の方々の体験記を掲載しています。
 会場では、体験記とともに、執筆者の被爆資料や原爆体験記を募集した昭和25年前後がどのような時代であったかを紹介する新聞記事等を展示しています。 また、体験記を、関連する写真や絵を用いた映像と音声で紹介しています。 この映像については、過去の企画展で制作したものも含め、体験記閲覧室で視聴することができます。 映像は平和学習資料として、DVDでの貸出しも行う予定ですので、ご希望の方は当館までお問い合わせください。
 体験記を通じて、被爆者の「こころ」と「ことば」にふれてください。
広島市が募集した原爆体験記の原稿(所蔵:広島市公文書館)
広島市が募集した原爆体験記の原稿
(所蔵:広島市公文書館)

(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館)

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