被爆体験伝承者から
 被爆者の高齢化が進み、被爆体験を話される方が少なくなってきている中、被爆者からその体験や平和への思いを受け継いだ人々がこれを語り継いでいくことが必要であることから、広島市では平成24年度(2012年度)から被爆体験伝承者を養成する取組を行っています。 3か年の研修を修了した方が、平成27年度(2015年度)から当財団の委嘱を受け被爆体験伝承講話を開始しました。 講話は平和記念資料館東館1階ビデオシアターで毎日3回行われる定時講話と、学校等へ出向いて行う講話があります。
 今回、伝承者の中から3人の方にお話を伺いました。

青木(あおき)圭子(けいこ)さん (平成27年度から活動)
 私は伝承者になる前からヒロシマ ピース ボランティアとして資料館で活動していました。 結婚してから広島に移り住んだため、広島のこと、原爆のことについて、地名も含めて(ほとん)ど知りませんでしたが、ピース ボランティアのために勉強を始めてからは、被爆者の方、周囲の方から本当に親切に教えていただきました。
 伝承者の募集が始まったとき、ピース ボランティアの活動に加えて、他の形でもヒロシマのことを伝えていこうと、応募しました。
 私は梶本(かじもと)淑子(よしこ)さんの被爆体験を伝承しています。 来場者にお話しするときは、梶本さんの体験を今の自分に重ねていただけるように、自分が梶本さんの立場だったら…と考えていただけるように心がけています。 また、梶本さんのいとこにあたり、学徒(がくと)動員(どういん)建物(たてもの)疎開(そかい)現場で被爆して亡くなった谷口(たにぐち)(いさお)
さん(当時13歳)の遺品が資料館本館に展示されていましたが(現在、本館は改修工事のため閉館中)、被爆直後に勲さんをお家に連れ帰られたお兄様の(たかし)さんから当時のお話を伺ったこともありますので、勲さんのような子どもたちのことも、来場者にお話ししています。
 学校等での講話も行っていますが、定時講話では来場者が少ないときもあります。 資料館来館者に、他の展示を見学するのと同じように、普通の見学の流れとして伝承者の話を聞いていただけるように、被爆体験伝承講話のことを知っていただければと思います。
青木さんの第1回伝承講話の様子。手前右から2人目は被爆体験証言者の梶本淑子さん。(2015年4月20日)
天崎(あまざき)俊章(としあき)さん (平成27年度から活動)
 私は昭和16年(1941年)、神戸生まれです。 原爆投下時は3歳で、父の縁故で広島県三原(みはら)市へ疎開していました。 被爆者ではない自分が原爆について伝えることはできないと思っていました。 しかし、平成23年(2011年)の東日本大震災の時、福島原発の事故を見て原発(核)の恐ろしさを実感し、そして宮城県気仙沼(けせんぬま)市の津波火災の真っ黒な焼け跡を見て「これはまるで被爆後の広島のようだ」と思ったのがきっかけで、伝承者として原爆を伝えていこうと考えました。
伝承講話を行う天崎さん
 私は中西(なかにし)(いわお)さんの被爆体験を伝承しています。 講話では、中西さんの証言を時系列に沿ってお話ししています。  被爆時、偶然にも建物の陰にいたため重傷を負わなかったこと、しかし原爆から10年くらい経ってから原爆症で亡くなる人達を見て、見える傷がなくても原爆からは逃れられないと感じたこと、結婚や就職での被爆者への差別、それでも子どもに異常がなかったことで安堵(あんど)した…中西さんの被爆とその後の生涯をお話しすることで、被爆者の生きてきた苦しみと、現在、中西さんが訴える「核兵器の非人道性」を伝えることが出来るのではないかと考えています。
 戦時中私は、神戸にいた幼い頃から、空襲(くうしゅう)に備
えて服に縫い付けられた迷子札の住所を暗唱できるよう教え込まれていました。 今でも空襲のサイレンの音を覚えています。 戦争を知っている最後の世代として、自分には被爆者の方と二世、三世といった戦争を知らない世代とを(つな)いで伝承していく使命があるのではないかと考えています。 新聞などで被爆者の方の訃報(ふほう)を知るたび、しっかり伝えていかなければと実感しています。

生田(いくた)弘子(ひろこ)さん (平成27年度から活動)
 私は生後2か月のとき爆心地から2.3kmの自宅で被爆しました。 母がすぐ私や姉たちをつれて近くの山へ逃げたので、体はどうにか無事でしたが、家は全焼しました。 幼い頃から私の周りには大勢の被爆者がいました。 家族をはじめ、近所の人、学校の友人、先生等、ひどいヤケドを負った方々がおり、街に出れば手や足を失った軍人さんたちがいました。 また、白血病で亡くなり、原爆の子の像のモデルとなった佐々木(ささき)禎子(さだこ)さんは、中学校の先輩です。
 以前、学童保育の指導員をしていた時、原爆のことを知らない、聞いたこともない子供がいて、はっとさせられ、原爆が遠い存在になったと痛感したことがあります。 そのような状況でしたので、伝承者の募集記事を見たとき、すぐに応募しました。
 私は細川(ほそかわ)浩史(こうじ)さんと私の家族の被爆体験をお話ししています。 17歳の時被爆された細川さんは、自身はどうにか無事でしたが、13歳で広島県立第一高等女学校(第一県女)1年生だった妹の森脇(もりわき)瑤子(ようこ)さんを亡くされました。 瑤子さんは爆心地からわずか800mの至近距離だった学徒動員の建物疎開現場で原爆の直撃を受けたのです。 瑤子さんが第一県女入学の日から書いていた日記は、本として出版され、それをもとにアニメーション映画が製作されるなど、大変貴重な資料になっています。
 定時講話では、来場者がもう少し多ければいいなと思うことがありますが、実際に講話を聞いてく
生田さんの伝承講和の様子
ださった方からは「皆に聞いてもらいたい」、「これからも是非続けて下さい」、「下の子が大きくなったら、また聴きに来ます」など、好意的・肯定的な言葉をいただき、励みになっています。
 これからも、わかりやすく事実を話し、被爆の実相を知ってもらい、「戦争は絶対だめだ」という意思を一人ひとりが持って行動につなげていくことが大切だと訴えていきたいと思います。 将来、今の子どもたちが大きくなったとき、戦場へ行くことがないよう、心をこめてお話しさせていただきたいと思っています。

(総 務 課)

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