和文機関紙「平和文化」No.195, 平成29年8月号

被爆体験記
「被爆体験証言者の使命」

本財団被爆体験証言者 飯田 國彦
飯田國彦
プロフィール 〔いいだ くにひこ〕
1942年満州生まれ。 2歳で父が戦死、3歳で母・姉らが被爆死。 祖母、叔父、叔母らに育てられ、県立広島工業高等学校卒。
三菱重工入社、キャタピラー三菱へ出向して支店長を歴任、定年後第一レンタル株式会社常務。 勤務の傍(かたわ)ら心理学を学習、交流分析協会理事長、心理相談員会相談役、大学教授・講師を歴任。
学長表彰:米 アームストロング大学、サンフランシスコ州立大学、調停委員勤続表彰:富山地方家庭裁判所長。

 原爆被害は、終戦までは軍によって、終戦後はGHQによって悲惨な現実が秘匿(ひとく)されてきました。 最近では、核兵器廃絶に繋(つな)げる必要性から、実相を伝えようとする動きが強まっております。 しかしながら、未だに本当の悲惨さはあまり伝わっておりません。 原爆の悲惨さに対する認識が異なれば、核に対する対応、条約に対する取り組み姿勢が異なります。 また広島の復興を見て原爆を過小評価する人もいます。
 原爆は、人類はもとより地球上のあらゆる生命を断ち切り、環境を破壊し、地球を死の星にする悪魔の兵器です。 原爆が生き地獄と表現されますが、それは誤解です。 そもそも地獄とは仏教で言う六道輪廻(ろくどうりんね)の最下にあって、悔い改めればよじ登れる範囲の悲惨さを対象としており、原爆のように瞬時に体が破壊され、焼け焦(こ)げ、白骨化するような場面を想定していせん。 曼荼羅(まんだら)にも地獄図絵にも原爆のような悲惨さは書かれておりません。
原爆の実相
 爆心地およびその近く(0~5、600m)では、約400m/s の爆風、3、4000度の熱線によって、数万の人が、頭が割れたり、目玉が飛び出したり、首・手・足がバラバラになったり、腸が飛び出した状態で、黒焦げとなり、瓦礫(がれき)の上や中に混在して残されました。 (「図録 広島平和記念資料館 ヒロシマを世界に」(p67)、「写真集 ヒロシマ」(p33)、「広島原爆戦災誌」第一巻(p104-11,632)、第二巻(p84-87)、「広島原爆被害の概要」(p18-34)、「ヒロシマの証言―平和を考える」(日本評論社)(p50-57)、NHK・中国新聞社 記録集等参照)
 少し離れたところ(5、600m~1.2km)では、服は燃え皮膚は剥(は)がれて、人々は幽霊の行列のように、水を求めて、川辺も川面も隙間(すきま)なく埋め尽くすように亡くなりました。
 放射線による奇形を持つ胎児が流産し、先天的に小頭症等の病気を持つ子どもが多く生まれています。 その後、白血病やガンなどの原爆症で多くの人が亡くなり、「原爆ぶらぶら病」等の後障害を患(わずら)ったり、今なお、放射線被害で苦しみ、「第二の白血病」とも呼ばれる骨髄異形成(こつずいいけいせい)症候群(MDS)などで亡くなっています。  このような悲惨な実相の伝わり方が不十分だと、核廃絶に対する意見が分かれます。 改装中の平和記念資料館本館の新展示に期待するところ大です。
「死んだ我が子を背負う若いお母さん」
本通りから見た爆心地方面(1945年8月7日)
(岸田貢宜(きしだ みつぎ)氏撮影/岸田哲平(てっぺい)氏提供)
相私の被爆体験
 爆心地から900mの水主町(かこまち)の母の実家で被爆しました。 母は姉(4歳)の手を引き、私(3歳)は叔母(県立広島第一高等女学校1年生 山本弘子(やまもと ひろこ))に抱っこされて、住吉橋(すみよしばし)東口まで逃げました。 そこで目にした光景は、爆心地側は、おびただしい数の遺体が、断裂状態、黒焦げで、累々(るいるい)と横たわり、住吉橋周辺は、服が燃え皮膚が剥がれた数えきれない程多くの人たちが、次々と川辺や川面で亡くなりました。 その光景を目にした、京都大学で物理学を学んでいた叔父(母の弟・新中康弘(しんなか やすひろ)博士)は、「これは原子(の)爆弾だ」と誰よりも早く唱えたと伝えられています。
 その後、私たち親子は新庄(しんじょう)村の親戚のもとへたどり着きました。 そこで母と姉は、足から壊死(えし)して亡くなりました。 わたしは奇跡的に命を取り留めましたが、心身の具合が悪く、苦難の人生の始まりとなりました。
平和への道
 国際情勢が悪化する中、世界には15,700発の核兵器があります。 しかも、その殆(ほとん)どが広島原爆の数十倍以上の威力を持っています。 しかも、小型高性能で、同時に数発遠方へ飛ばせるように進化していますが、対する迎撃力は不確かです。 核兵器は既に、1発で1千万人以上の被爆者をもたらす魔の兵器になっています。 核は核の抑止力にはなりません。
 オバマ大統領のように、地球そのものを破壊してしまう核兵器の悲惨さを認識すれば、二度と核兵器を使おうという気にはならないでしょう。 「はだしのゲン」の著者・中沢啓治(なかざわ けいじ)は次のように述べています。 「原爆の本当の悲惨さは、悲惨過ぎて、漫画や小説では伝えようがない。」
 原爆の本当の非人道的な悲惨さを伝えていくことこそ、唯一世界平和への道であると考え、日本を始め、諸外国への証言活動を、残された僅(わず)かな命ですが、続けていく所存です。
飯田さんの被爆体験講話の様子
飯田さんの被爆体験講話の様子
平和記念資料館「新着資料展」展示
平和記念資料館「新着資料展」展示
手前は「婚礼衣装」(山本弘子氏寄贈)
飯田國彦さんのお母様、飯田稔子(としこ)さんの遺品。
被爆前日の8月5日に他の荷物と一緒に疎開していて無事だった。
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