和文機関紙「平和文化」No.198, 平成30年7月号

被爆体験記
「生かされた命 平和への懸橋(かけはし)に」

本財団被爆体験証言者 近藤 康子
近藤康子
プロフィール 〔こんどう やすこ〕
1940年(昭和15年)生れ。4歳の時、爆心地から3.5kmの疎開先で被爆。被爆3日目、爆心地から800mの市内の我が家まで母、妹と徒歩で帰宅。瓦礫の上を下駄で歩いたのが忘れられません。平成13年からヒロシマ ピース ボランティアとして活動。平成27年から被爆体験証言者として活動。
平和活動の動機
 平成13年(2001年)からヒロシマ ピース ボランティアの活動を始めました。 月に2回以上の、平和記念資料館や平和記念公園内のツアーガイド活動です。 ガイドをしていると、皆様に「お元気ですね」と声をかけられます。 元気なのは73年前の被爆体験があるからだと思います。 次世代の者に二度と私達と同じ体験をさせてはいけないとの思いがあるからです。
 平成27年(2015年)から、被爆体験を平和学習に来られた生徒様に語っています。 御礼の手紙が励(はげ)みになります。
1945年 8月6日
 あの日は、朝から空は真っ青に晴れ、じりじりと焼けるような暑い日でした。 私は4歳で、疎開(そかい)先の、当時の広島市古田町(ふるたまち)(爆心地から3.5km)におり、8時には配給所の横の小川で友達と水遊びをしていました。
 8時15分、ピカー、ドーン、ものすごい光線を感じ川べりに伏(ふ)せました。
 すぐに母が配給所から妹を抱きかかえて飛び出して来て、私達は防空壕(ぼうくうごう)へと走りました。 途中、妹の様子がおかしいのです。 目を白黒させ、口をもぐもぐしています。 口の中に何かが入っているのです。 母が妹の口の中へ手を突っ込むと、ガラスの破片が次から次へと4かけら出て来ました。 妹の口の周りと母の手が血で真っ赤になっていたのが忘れられません。
 古田町地区の住民が爆心地近くへ建物疎開作業に出かけていましたが、昼頃に、皆真っ黒になり、真っ裸(まっぱだか)で、ぼろ布をぶらさげて手を前に突き出し、群れを成して帰って来られました。
 学校へ行った私の従兄(7歳)も夕方、配達用の自転車に乗せられて帰って来ましたが、ぼろ布の様になり、朝早く威勢(いせい)良く出かけた姿とは別人の様でした。 この従兄は15日後の8月21日に死んでしまいました。 毎年8月6日にはお墓参りをし、熱かっただろうと手を合わせます。
 ぞろぞろ歩く人々の群れの中の1人が、疎開先の家の前のお地蔵様の横へ座られました。 一糸纏(まと)わず、身体の前を紙袋で隠し、お地蔵様が2つになったかのようでした。 近寄ってみると「嬢(じょう)ちゃん、水を下さい」と声をかけられましたが、4歳の私には、どうする事も出来ませんでした。
爆心地から800mの我が家へ
「瓦礫の上を歩く親子」
「瓦礫の上を歩く親子」
製作: 新宅杏袈(しんたく きょうか)(広島市立基町(もとまち)高等学校創造表現コース)、近藤康子
 翌日の朝、爆心地から800mの我が家を確認するため、母子3人で出かける事になりましたが、中々爆心地付近へは近寄れません。 歩き廻(まわ)り、やっと8月8日に我が家へ着きました。
 原爆から3日目でも、焼け残った物から煙が立ち上っていました。 あたり一面焼け野原で、敷地120坪あった大きな家は焼け、大きな池の庭石と蔵の石段のみ残って、また、赤い実がついたホオズキが1本、焼けずに残っていました。
母の実家へ
 我が家から、江田島(えたじま)の海軍兵学校を経由し、呉(くれ)の母方の祖父母の家に行き、8月12日位から暮らし始めましたが、1か月位、高熱と下痢(げり)が続きました。 最後には血便(けつべん)とまっ黒い便が出て、肛門(こうもん)から腸が飛び出しました。 母が温かい蒸しタオルで腸を収めてくれる時の痛さは今でも忘れる事が出来ません。 生後9か月の妹は丁度ハイハイをする時期で、血便のためハイハイの跡が血の線路の様になりました。
 頭には吹出物が出来、それにサラダオイルの中にベビーパウダーを練り込んだ物を塗(ぬ)ってもらったので、その年の12月位まで、真っ白い頭をしていました。 吹出物には煎(せん)じたドクダミ草が良いとの事で、ドクダミ茶を飲みました。 その頃の人々は、広島に新型爆弾が落ちた、被爆者はドクダミ草で毒を下して助かった、と言っていました。
核廃絶を訴えます
 今生きているのは周りの人々の温かい援助があったからだと感謝しています。 生かされた命、後何年生きるか。 体力のある限りピース ボランティアをやり、被爆体験を語り、核廃絶を訴えます。
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