太平洋戦争末期
私は8才のとき被爆しました。8月6日 きのこ雲の下で
あの日、空は晴れて爽(さわ)やかな朝でした。 爆心地から2.5km離れた己斐本町の自宅には、父方の曾(そう)祖母、祖母、両親、姉、私、弟二人の8人がいました。 朝食後、私は隣に行くため裏庭に下りた時です。 突然、窓がピカーッと青白く光りました。 とっさに私は地面に伏せようとして、意識を失いました。8月9日 火葬場と化した校庭
幸い家族は、怪我はしましたが何とか無事でした。 私は額の傷の治療のため、父と学校の救護所に行きました。校門を入ると、悲鳴とも呻(うめ)き声ともつかないざわめきが聞こえてきました。
市民が描いた原爆の絵「国民学校校庭で火葬する消防団、自警団の人々」
(作者 津沢与吉(つざわ よきち))
「八月十二、三日の頃新型爆弾が投下されて一週間被爆者も次々と倒れて処置に困ったことヽ思ふ。小学校の校庭に長い横穴を堀って火葬にしていた。照りつく暑さ 近郷近在より集った消防団自警団の手で焼かれた。腐敗しているので臭氣甚だしく急造の担架竹の先に針金の輪を作り運んでいた。白く灰色の煙は己斐駅の方から山の手の方に見いた。」
かけがえのない命
2013年、私はピースボートの「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」に参加しました。 私達はこの広い地球に生まれ合わせ、国や言葉は異なっても同じ時代を生きています。 百年というライフステージに陽は昇り、陽は沈み、寄せては返す波のようにかけがえのない日常があります。 あなたの愛する人は誰ですか。 あなたの守りたいものは何ですか。 今、一発の核兵器が使われたとしたら、人類は滅亡します。 被爆の実相を伝え、世界に警鐘を鳴らし続けることが、今を生きる私に出来ることです。