和文機関紙「平和文化」No.203, 令和2年3月号
“平和について思う”

国家が崩壊するとき:チャウシェスク政権崩壊を事例として

―東西冷戦終結30年に寄せて―

広島市立大学広島研究所 准教授 福井 康人
福井康人
プロフィール
〔ふくい やすひと〕
1964 年兵庫県生まれ。 パリ第1大学で博士号(法学)を取得。 専門は国際法(軍縮国際法、国際人権法等)。
2015年3月に外務省を退職し、広島市立大学広島平和研究所に赴任。
主な著書は『軍縮国際法の強化』(信山社(しんざんしゃ)より2015年2月刊行)、『通常兵器軍縮論』(東信堂(とうしんどう)より2020年3月刊行)。

1.はじめに
 30年経った今も忘れられないのはルーマニアで国家の崩壊を人生で初めて目にしたことだ。 当時私は日本大使館付の語学研修生としてブカレスト大学言語学部に在籍していた。 大使館次席の津嶋(つしま)参事官(当時)から、国内に不穏な動きがあるので、明日から大使館に来て臨時に館務に従事してほしいと電話があった。 当時のルーマニアは、徹底した言論統制下にあり、テレビもラジオも共産主義の宣伝番組か、偉大なる指導者のチャウシェスク同志が工場訪問して労働者を激励する等、チャウシェスク大統領の活動を報じるのみであった。 ルーマニア人は宣伝番組の表現から、当時のことを「黄金の時代」と自虐的に呼んでいた。 庶民の最大の楽しみは、政治的風刺を言いあって気を紛らわすことであった。
 当時の東欧では、職場から配給された休暇チケットを使い、例えばハンガリーのバラトン湖周辺や、黒海周辺で過ごすのが流行であった。 そんな中で1989年には特に中東欧の政治的動揺の影響もあり、ハンガリーの国境警備が緩和され、バカンスにきていた東ドイツ人の通過を許可し始めた。 東西冷戦の最前線にいたオーストリア国境警察も驚愕(きょうがく)したであろうが、次から次へとオーストリアを経由して多くの東ドイツ人が西ドイツに亡命した。 こうした動きは直ぐに東ドイツに伝わり、「ピクニック」と呼ばれ、多くの東ドイツ人が後に続き、最終的には東ドイツの崩壊に繋(つな)がった。 戦勝4カ国(米、英、仏、ソ連)で共同統治されて陸の孤島となっていた西ベルリンの、米英仏占領地区を取り囲む壁は破壊され、チェック・ポイント・チャーリー(東西ベルリン間の国境検問所)等以外でも東西ドイツ間での行き来が自由になった。
 そんな政治的状況が東ドイツ、後に分裂したチェコ・スロバキア、ハンガリーで立て続けに起きたため、当時の外務省東欧課は連日徹夜勤務の職員が疲れ果てて床に寝るほどと聞いた。 情勢分析の重点項目の一つが、東欧の改革は強力な政治統制が行われていたルーマニアやブルガリアにも波及するかであった。 このため当時東欧への窓口となっていたウィーンに政務担当官が集まって情報交換を行ったりしていた。 特にルーマニアでは反体制派に接触すると、逮捕・投獄・拷問に晒(さら)されることが予見されており、大使館の現地職員も定期的に派遣元の外交団世話部に大使館内の動きを報告していることも公然の秘密であった。 大使館内にも盗聴器が仕掛けられている可能性があるので、機微な内容の打合わせは、大使館の庭で行うことが多かった。
 そんな中で貴重な情報源は東欧からの亡命者が祖国に向けて情報を発信しているヨーロッパ自由放送RFE(Radio Free Europe)であり、BBC、ドイチェ・ヴェレ等もルーマニア語放送を行っていた。 RFEはミュンヘンにあり、現在もドイツ連邦情報庁が置かれているように、当時から欧州の情報機関の重要な活動拠点であった。 こうしたルーマニア語放送局が国内では報道されない東欧の最新状況を報道していたが、1989年12月16日にティミショアラでついに民衆が蜂起して治安部隊と衝突して鎮圧されたと報じられ、市民の間でもその噂(うわさ)は広まり始めた。 このため日本大使館も警戒態勢に入り、私も政務班に増員として臨時配置され、急遽(きゅうきょ)勤務することになった。
 
2.ティミショアラでの暴動
 市民の間でもティミショアラの暴動の話が密かに語られるようになっても、肝心の証拠がなかったため、各国も必死で情報収集を行っていた。 主要国の大使館が考えたのは、大使館員を現地に派遣して市内の状況を確認することであった。 そこで当時の市岡(いちおか)大使は本省とも相談した結果、政務担当官及び防衛駐在官を現地に派遣することにした。 勿論(もちろん)、失敗すれば館員がペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)として追放され、ルーマニア人運転手が反体制勢力に協力した反逆罪で逮捕される等の報復の恐れもあった。 慎重論もあったものの、証拠をつかむにはティミショアラ入りしかないとの結論になり、途中でルーマニア側官憲に妨害されにくいように大使車を使い、目立たぬように3名が静かに大使館を出発した。
 米国、フランス、ドイツも同じことを試みたものの、幹線道路から入ろうとしたため、警察の検問で捕捉され、最終的に追い返された。 日本は、街灯がないため途中で道に迷いかけたものの、幹線ではなく田舎道からティミショアラにたどり着こうとした。 途中で村の駐在所の警察官に見られたものの、気が付いたら街の中心部に到達していたそうである。 そこでは、ガラスが割られて粉々に飛散って破壊された商店や、銃弾や流血の跡が見られ、ティミショアラで暴動が発生し、一般市民が弾圧の犠牲になったことは明らかであった。 そうしているうちに、市内を巡回していた秘密警察に発見され、現地の臨時指揮所が設置されていた中心部ホテルへ移動し、そこで簡単な尋問を受けてから、ティミショアラは現在外国人立ち入り禁止区域に指定されているにもかかわらず市内に入ったとして、パトカーに先導されてティミショアラからの事実上の強制退去を命じられた。
 2名の外交官は来訪の目的を尋ねられただけだったが、ルーマニア人運転手は事情聴取の途中で髪の毛を引っ張られて脅され続け、彼は生きた心地がしなかったと思われる。 結果的に日本だけが潜入に成功し、ティショアラでの惨状のニュースが東京発で世界中に発信された。 後日、証拠となる遺体が掘り返され、教会に遺体の入った棺が数多く安置されている映像を私もテレビで見たが、この暴動鎮圧で何名の犠牲者が出たか正確な数字は明らかになっていない。 ただ、はっきりしているのは、名前からもハンガリー系住民であることが明らかなラズロー・トケシュ牧師が迫害されて起きた抗議集会が引き金となり暴動に発展し、これに対して治安当局が発砲も辞さずに制止しようとしたため、犠牲者が多数出てしまったことである。 東欧でドミノ現象のように共産党政権が倒れて政権交代が次々と起きたことが背景にあり、ティミシュ県の治安機関は中央政府と連絡を取りつつ、体制維持のために強硬策に出たものと思われる。
 
3.共産党本部前の官製集会
 ティミショアラ動乱の時にチャウシェスク大統領はどうしていただろうか。 彼はイランに外遊中であり、当然ティミショアラでの騒動について報告を受けていたはずである。 数日後にチャウシェスク大統領が帰国したとの報道があったものの、ティミショアラで起きたことについてルーマニア国営テレビは一切報じなかった。 そのうちに、政府が集会を予定しておりチャウシェスクがティミショアラの暴動について非難するとの情報が入ってきた。 それは12月21日午後であり、暴動発生から5日後であった。 当時の大使館からそれほど遠くない場所なので、我々も昼前に市内の様子を伺いながら徒歩で現地に行った。
 その場所は旧王宮が国立美術館として残されており、歴史的建造物であるアテネ音楽堂や、由緒あるアテネ・パレス・ホテルやブカレスト大学図書館、更には共産党本部があった。 本部周辺は立入禁止で、元々は王宮を守る内務省の建物であったという。 後述する銃撃戦が始まってから判明したが、周囲のアパートには体制側の秘密警察関係者等政権に忠実な住民が住んで、共産党本部を守っていた。 そのような歴史的背景のある建物であり、地下のトンネルで2つの建物が繋がっていたなど、後になって驚くことばかりであった。 また周辺では、党幹部や政府要人の自動車に割り当てられた1B3桁のナンバープレートの車が無謀な運転をするので要注意と言われていた。 市内中心部でも昼間にいきなり通行止めになることもあり、それはプリマベーリ地区にある公邸と共産党本部とのチャウシェスクの往来時であった。
 そのような場所の前の広場が集会会場に選ばれ、動員された市民が続々と詰め掛けてきた。 ティミショアラと同じようなことが起きては困ると当時の政府も思ったのか、警備も厳重であった。 我々は少し離れたアテネ・パレス・ホテルの周りから観察していたが、日本人でルーマニア語を話す人も限られていることから、私服の秘密警察も日本大使館関係者が集会の様子を偵察に来ていることは把握していたと思われる。 もっとも、これまでの集会とは異なり、共産党本部前には動員者を輸送した後のバスが横付けされ、盾のように配置されていた。 そのうちにチャウシェスクが正面のバルコニーに現れた。
 ティミショアラの非難声明が既に出されていたが、チャウシェスクが話し始めた直後に前方で爆発音が鳴り、驚いた動員者が警備の警官や私服の秘密警察の人垣を乗り越えて、市内中心部に流れ始めたため、我々もあわてて大使館に戻った。 後で放映されたビデオを見ると、チャウシェスクも予期しない状況が発生したため、唖然(あぜん)とする表情が印象的であった。 そして、取り巻きの幹部があわてる一方で、一般市民が「チャウシェスク打倒」と叫び始め、市内中心部に流れて、クラクションを鳴らす自動車もあり、まるで解放区のような感じになった。 ところがそれが終わりではなく、市街戦の始まりであった。
 その日は偶然であるが近隣の大使館からブカレストに出張者がいたこともあり、大学広場前のインターコンチネンタル・ホテルに部屋を予約していた。 上層階のその部屋からはブカレスト大学等がきれいに見えたが、集会後に機関銃を装備した装甲車がどこからともなく現れて、群集と化した市民と対峙(たいじ)して追い込み始めた。 慌ててその路上の様子を大使館にホテルの部屋から電話で伝えて、伝令ゲームのように大使館の別の人が東京に伝えることが出来た。 このため、緊張したブカレストの様子がなぜか東京発で即時に発信されるという不思議な状況が続いた。
 というのもブカレスト市内で夕方から治安部隊が出動して緊迫感が漂い始め、空港も閉鎖され、チャウシェスク政権末期の厳しい報道統制もあり、日本の報道関係者は「赤旗」特派員だけであった。 現在とほぼ同じで在ウィーン東欧記者会所属の特派員等が何かあると大使館に電話取材してくるだけで、他国も同様であったため、報道するにも出来ない事情があった。 そのうち夕闇の中で銃声が響き、ついに発砲が始まった。 当初は上を向けての威嚇射撃であったので、我々はホテルの窓の外を実弾が通過する直ぐ傍にいたことになり、命中すると確実に死亡する恐怖感を味わいながら、みんなあわてて室内に避難したのを覚えている。
 銃声は続いており、そのうち戦車まで出てきて、そちらは空砲であったが、市民を恐怖に陥れるのには十分であった。 昼間に居た広場は戦場のようになり、我々も身の危険を感じながら現場の状況把握を行っていた。 大学図書館には火が放たれ、旧王宮の国立美術館や近所のアパートからも銃撃が行われるので、正直怖かったし、中心部から離れた大使館にも流れ弾が飛んできてガラスが割れた。 ミレア国防大臣は責任を取らされて解任され、自殺か殺害されたか定かではないが、いずれにせよ後任にはティミショアラ掃討作戦を指揮したスタンクレスク将軍が任命された。 しかしながら、彼は空気を読んで命令を拒否して、国軍が市民側に寝返った。 22日昼ごろチャウシェスク夫妻はヘリで逃亡を図ったものの、ティトー空軍基地に強制着陸させられ、翌23日には陸路での逃亡の末逮捕された。
 
4.結びにかえて
 22日に権力を掌握したイリエスク氏らが救国戦線臨時政府の樹立宣言する一方で、26日にはチャウシェスク夫妻を形式的な軍事裁判に付して死刑を宣告し、直ちに銃殺された様子がテレビで報道された。 栄華を誇ったチャウシェスク政権は衝撃的な結末を迎えたが、秘密警察を中心としたチャウシェスクに忠誠を誓った残党組が共産党本部の周りの建物から銃撃して最後まで抵抗した。 実は銃撃戦があったのは、それ以外の地区では国防省とテレビ局周辺と限定され、正に権力掌握のための市街戦であった。 幸い当時の日本大使館はこうした場所から離れていて安全なので、80名余りの在留邦人が大使館に避難してきたが、避難に見せかけて大使館に入り取材活動を行い、こっそりと電話で連絡する某公共放送局記者には、在留邦人の生命が懸かっているので、正直閉口した。
 同時並行的に、外務本省から在米国大使館に訓令を発出し、米国が陸路で米国市民を避難させる際に在留邦人も同行することで合意が得られて、翌朝には出発の準備が始まった。 大使館を出発して米国大使館脇に車列を組んで待機していた時に、近隣の秘密警察の建物から銃撃が始まり、米国大使館を警備する海兵隊が応戦した。 泣き出す子供も居て、一緒に居た我々も生きた心地がしなかった。 そのうち銃撃戦も止み、一行も隣国ブルガリアに向けて出発し、数週間後に安全になってから帰国した。 そのうち残党組も投降して市内の銃撃戦も収束したが、激戦のあった地区では焼け跡となった建物が長く残っていた。
 その後も、首相府(以前は外務省)の前で毎日のようにデモが続き、また、大学広場でもデモ隊と治安部隊との衝突による若者の犠牲者を追悼してデモが続いていた。 1990年6月には政権を掌握したイリエスク大統領がブカレストに呼んだとされる炭鉱夫が狼藉(ろうぜき)を働いてデモに参加する一般市民を襲い、デモは崩壊したものの、政権が変わっても民主主義の確立には時間を要することが伺われた。 事実、ルーマニアがNATOに加盟したのが、私が2回目に政務班長として勤務した2004年であり、EU加盟を果たしたのが離任後の2007年である。 その後国外に出稼ぎに行くルーマニア人も増え、2018年は在外ルーマニア人のデモが起きた。 ゆっくりと民主化の道を歩むのがルーマニアの現状であり、一連の出来事は私が平和、市民、国家と言った基礎的な概念を考える上で非常に役に立っている。
 平和については、サロモン編『国際法事典』が「戦争のない状況」と定義し、平和研究所の同僚が出版した本にも類似の記載が見られる。 ではこの「ルーマニア革命」は該当するであろうか。 この定義は国家間の開戦宣言をして戦争を始める場合は該当するものの、共産党内の権力闘争と見る人は「宮廷革命」と称するように、こうした非国際的武力紛争は該当せず、他方、武力紛争ともいえる戦闘が起きていて犠牲者も生じた。 市民といっても、デモを統制していた秘密警察は制服を着ておらず、我々と変わらないので定義も難しい。 国家についても、最終的には政変により体制は変わったものの、あの状況下で国家がどのような変容を遂げたか説得力のある説明は難しい。 あの時の出来事は事実の歴史的解明の必要性と、単純化できない戦争と平和の位相や市民と国家の関係の説明の難しさを我々に示している。
(令和2年2月寄稿)
 
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