平和記念資料館本館展示「絵筆に込めて」のコーナーには、被爆者が当時の情景を思い出し描いた「市民が描いた原爆の絵」の原画を展示しています。
原画は、展示による劣化を防ぎ長期的に保存していくため、毎回テーマを決めて選定し、半年ごとに入れ替えています。
今回は、家族や友人など、作者にとって身近な人物を描いた絵6点を選び、入れ替えました。
入れ替えた絵の中に、被爆して避難している途中で座り込み動けなくなってしまった友人の姿を描いたものがあります。
作者の松原美代子
(まつばら みよこ)さんは、当時12歳で広島女子商業学校の1年生でした。
松原さんは鶴見橋
(つるみばし)付近の建物疎開作業に動員されて被爆し、体に大火傷を負いました。
川へ避難し、そこで同級生の道子
(みちこ)さんと出会いました。
道子さんもひどい火傷を負い、二人で助け合いながら火災を逃れました。
励ましあいながら避難を続けますが、道子さんは途中で動けなくなりました。
絵の中に、火傷で皮膚が垂れ下がった二人が、向き合って言葉を交わしている様子が描かれています。
道子さんは松原さんに「自分はもう動けないから、先に行ってほしい。学校の先生に自分がここにいる事を伝えてほしい」と頼みました。
松原さんは、ためらいながらもその場を離れ、その後、道子さんは亡くなった状態で発見されました。
別れる際に道子さんは目で「連れて行ってちょうだい」と訴えているようにも見え、その姿が松原さんの脳裏から離れることはありませんでした。
三浦静子
(みうら しずこ)さんは、被爆して傷つき、顔にベットリと血のりがついた妹の姿を描きました。
妹の久子
(ひさこ)さんは、自宅で被爆し、建物の下敷きとなりました。
何とか這
(は)い出しましたが、右手に傷を負い、顔にはガラス片が突き刺さりました。
静子さんの家に避難してきた久子さんの顔は腫れ上がり、多数の傷口から流れ出た血のりがこびりつき、久子さんと思えぬほどでした。
静子さんは、久子さんがかすかに「姉ちゃん助かるかね」と言った声が長く耳に残り、忘れることができませんでした。
その後、静子さんは久子さんを懸命に看病し、久子さんは回復しました。
作者にとって、被爆当時に目の当たりした惨状は思い出すのも辛く、それが自分自身にとって身近な人の姿であれば、その辛さは、例えようのないものだったはずです。
それでもなお、筆を取ったのは、その人の被爆当時の状況と存在を描き残し、伝えなければならないという強い思いからでした。
その思いを感じながら、絵に描かれた一人ひとりの姿に向き合っていただければと思います。
次回の入替は今年2月頃の予定です。
(平和記念資料館 学芸課)