被爆体験記
消された街、広島
広島被爆者援護会 理事長 瀬木 正孝
プロフィール
[せぎ まさたか]

昭和9年10月28日生。満10才の時、爆心地から南東1500メートルの舟入幸町の自宅で被爆。
平成5年10月に広島被爆者援護会を設立し、現在まで理事長を務める。
平成7年に胃癌の手術。平成8年に特別認定被爆者に。妹2人は白血病で、弟は肺癌で死亡。母は5ヶ所に転移した癌で死亡。

学童疎開
昭和20年4月、舟入(ふないり)国民学校から双三郡(ふたみぐん)十日市(とおかいち)国民学校に転校。 3才の妹、2年の弟、小5の私は祖母の家(現在の三次市(みよしし))に疎開。 戦争が終らないと、父母兄弟に会えないという思いから、8月5日、弟と2人で広島に逃げて帰り、父に叱られた。思い出です。

広島が「ヒロシマ」に変えられた日
8月6日朝、警戒警報で起き、2階から下に降りると、父は仕事に出て行くところで、私を見ると「今日おばあさんところに帰れ」と言って出て行きました。 これが父を見た最後となりました。 朝食を()べ終り、母は近所に用があると出て行き、私は中庭にあった錦鯉の池のほとりに立った時、 天地を引き裂く様な白光が走り、ほぼ同時にガーンと強烈な音。
  次に私が気付いた時は、南に10メートル余り飛ばされ、上からバラバラと落下して来た物で頭を負傷し、出血しておりました。 兄は背中一面にガラスが突き立っておりましたが、幸い弟と妹はかすり傷もしていなかった様です。 外出していた母は体の正面から2,000度近い熱線を浴びて、大火傷(やけど)を負って苦しんでおりました。
  その夜、近くの畑の中で近所の人達6、70人と、広島全体が大火災となっているのを茫然(ぼうぜん)として見ているだけでした。
  翌7日、江波国民学校の救護所に入り、「赤チン」で消毒するだけの治療。 母が腫れ上った顔で私に「お前は元気そうじゃけえ家の方に行ってお父さん帰っていないか見て来て」と言うので、 昼前から自宅の焼け跡を探して瓦礫(がれき)の中を歩きました。 どこに立っても「ヒロシマ」中が見渡せました。 そんな中、目にしたのは、ポツン、ポツンと黒ずんだビルが立っている光景でした。 広島と言うのは狭い街だったんだなあー、と思いました。 私の家も完全に焼けており、何一つ残っておりません。 それから父を探して舟入、観音(かんのん)天満(てんま)己斐(こい)横川(よこがわ)と歩いていると、「僕これを喰べんさい」と言って救護隊の女の人がおにぎりをくれました。

人間が、人間としての心
(もら)ったおにぎりを喰べ(なが)ら、 ゴロゴロと転がっている死体をまたいだり、瓦礫の下の死体を踏みつけても、気にもせず平気でいられたこと、これが戦争の怖さであります。 戦争というのは人間の心と、精神を破壊するから、この時、私は人間としての心を持っていなかったのだと思っております。 その後、暗くなる迄歩いて探しました。

死体の中で動いた手
8日の朝から父の勤めていた広島県庁に向かった。 川にはあちこち死体が浮かんでいる。まだ救援活動が始まって2日目のことだから、多くの死体があるのは当然です。
元安川(もとやすがわ)を流れる死体
(「市民が描いた原爆の絵」池亀春男(いけがめ はるお)さん作)
  中島町(なかじまちょう)にあった県庁も瓦礫と化していました。 何気なく南東の方を見ると、日赤病院の塔が見えました。 被爆して負傷した多くの人は、この塔を「命の塔」と言ったと聞いております。 父もそこに居るかもと思って、私も日赤の横門から入り、たくさんの負傷者の中を歩き、2階、3階の病室も(のぞ)きましたが、父の姿はありませんでした。 仕方なく正面玄関に出ると、円形の築山(つきやま)があり、 そのまわりに、何も着ていない黒く腫れ上った死体が放射線状に5段、6段と重ねてありました。
  父の顔がないかと死体を覗きこんで、ぐるりとほぼ一廻りしかけた時、一番下の方から1本の腕が空に向かって突き出ておりました。 他の死体にくらべてその腕は妙にやせほそっていたので、ふとその手を見ると、指が力無く動き、何か(つか)もうとするように見えました。 それから時々夢に出てくる様になりました。

語り伝えることの大切さ
私に残された時間はあまりないでしょう。 だからこそ次世代を(にな)若人(わこうど)にお願いしたい事です。 一人、一人が思いやりの心を持って、自分をふくめて人間の命の大切さを多くの人に伝えたいと思います。

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