会場では、体験記とあわせて、被爆者が描いた絵や衣服などの被爆資料も展示しています。
また、体験記を、関連する写真や絵を用いた映像と音声で紹介し、被爆の悲惨さを訴えています。
この映像については、過去の企画展で制作したものも含め、体験記閲覧室でも観ることができます。
今回、展示している被爆体験記の中から、伊藤サカヱさんと妹尾治人さんの体験記(抜粋)をご紹介します。
婦人会長をしていた伊藤さんは、義勇隊百人の副班長として出動し、被爆しました。
…… 瞬間、後背よりの閃光のため衣類が燃え出し、ためらう中に家の下敷になり、
気がつき十分位して下敷から這い出して外に出た時、周囲は全部ダイタイ色の空気で何も見えなかった。
少したってあたりの空気が晴れた時、ヒロシマの街は消えて無くなっていた。
当時二班の五十名の隊員を点呼して矢野へ帰えるよう命令した。
その時の一緒に行った町内の人々は、ツルツルに顔から全身焼きたゞれ、皮膚が下っていた。
面相が変って誰か分らない位いだった。
隊員を帰えした後、私は一人残って下敷の町内の人を堀り出すために救援に来た兵隊に頼んで二人堀り出してもらい、
主人と大八車に死体を乗せて大洲の里迄、帰えった。
大洲橋を渡る時は、もう死体が浮いて流れていた。
主人は里の工場から私を探しに来て出会った。
夕方、矢野の国民学校迄帰えった時、学校の各教室は収容場となり、全身焼けた人やケガ人がいっぱいで驚いた。
つける薬もなく、油もなく、私は自分の背中の皮を切りとってもらって、責任のため走りまわ〔っ〕て手配した。毎日、毎日、何十人と死んで行った。……
妹尾さんは職域義勇隊の一員として建物疎開作業に従事し、集合場所で待機中に被爆しました。
…… 八時十五分、運命の原子爆弾第一号が投下された。
原子爆弾のことを「ピカドン」とは良く言い表した言葉で、最初にピカッと写真のフラッシュをごく近距離で浴びたような猛烈な光線が走り、座っていた黒塗りの縁側の板がまっ白に見えたのを覚えている。
そして二秒位して今度はドーンと大きな爆発音と共に家屋が倒れた。
その瞬間、塵埃で真っ暗になり何も見えない。
目をやられたのか真っ暗で何がどうなったのか全く判らない。
十秒位して夜明けの如くぼんやりと視界が開けてきた。
爆風で座っていた場所から数メートル飛ばされて腰に打撲傷を受けたが外傷はない。
目もやられていない。
周囲を見れば見渡すかぎり木造の家は倒れている。
市役所は窓は吹き飛ばされているが建物は残っている。
普通の爆弾一発ではせいぜい数軒が破壊される程度なのに、この被害はどうしたことか。
とてつもない超大型爆弾が投下されたものと思った。
待機していた家も完全に倒れ、その家の壁の下から黒川さんのうめき声がする。……
この体験記の全文および企画展の内容は、当館の体験記閲覧室もしくは
こちらのホームページ>>
をご覧ください。
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