“平和について思う”
広島の地であらためて平和について考える
ユニタール広島事務所 所長 アレクサンダー・メヒア
プロフィール
2009年10月からユニタール広島事務所長。
金融、外交、公職、学問研究など幅広い職歴を持つ。 ラテンアメリカの金融機関(銀行)に7年間勤務した後、1998年から外交官としてのキャリアを開始。 その後2001年にエクアドル共和国の経済副大臣、世界銀行総裁に任命される。 2003年にアメリカに移り、ワシントンのインター・アメリカン・カウンシルでアンディーン・プログラムのディレクターを務め、 2005年にアトランタの国連訓練センター所長としてユニタールに着任。 さまざまな大学で教鞭をとり、記事など掲載多数。CNNネットワークなどの主要テレビ局のインタビューも多数受けている。
コスタリカのINCAE大学から財政学の修士号を、米国、ワシンントンのジョージタウン大学から外交問題の修士号を取得。 現在は、妻と3人の娘と広島に住んでいる。

広島での国際連合の任務を命ぜられ、2ヵ月で引き継ぐ準備を始める必要があると通知するジュネーブからの電話を受けた日、私はアトランタにあるオフィスに居ました。 2009年8月初旬の暑い夏の日で、私はしみじみと幸福感に浸ったことを覚えています。 歴史や文化に対する認識が深まり始めたティーンエージャーのときから、私は日本に住みたいと思い続けていたのです。
  その夜、妻と子どもたちにこのニュースを告げたとき、彼女たちは、広島ではどのような暮らしが待っているのかと尋ねました。 私はためらいなく、国連の同僚から「平和な」暮らしだと聞いていると答えたものでした。 この美しい街に半年あまり暮らしてみて、その言葉は私にとって多くの意味を持つようになり、この言葉を使うたびに、一瞬とまどいを覚えるようになりました。

オックスフォード英語語源辞典によると、平和という言葉は、「戦争、動乱もしくは衝突のない、静かで穏やかな調和」を意味します。 戦争の惨禍(さんか)によって世界中に知られるようになり、 世界の多くの人々が、今日の広島を平和の象徴としてのみならず、地上でもっとも平和的で調和のとれた街とみていることは歴史の皮肉ではないでしょうか。 8月6日の朝、空からホロコーストが降ってから、わずか64年で見事に復興し、豊かに発展した活気ある街へと生まれ変わっただけでなく、 地球の聖地の1つとなり、内外から来た多くの人々が働き、暮らし、学ぶ、豊かな緑と静かに流れる6つの川が織りなす平和を謳歌(おうか)する知識のメッカになったのです。

戦争の破壊や恐怖の跡が、さまざまな形で平和の姿をとっていることは称賛に値します。 このすばらしい成果を達成するために、戦後から今日まで多くの闘士が活躍してきました。 その1人が広島へのオリンピック招致を提案した秋葉忠利(あきば ただとし)市長です。 私はオリンピック開催都市の1つであるアトランタに4年あまり住んでいたことから、この平和の祭典が都市にもたらす恩恵がいかに大きいかを証明できることは言うまでもありませんが、 むしろ、オリンピックがもたらす絶大な経済効果にポイントを置くべきかもしれません。 私は、秋葉市長は、核兵器廃絶と核兵器のない世界のために戦う闘士として、未来に対してきわめて重要な役割を演じている都市の、究極のゴールを構想されているのではないかと思っています。 仮にオリンピック委員会に広島が選出されるとすると、広島は世界の平和キャンペーンを率いる被爆都市であるだけでなく、 復興、平和への取り組み、そして夢のオリンピックという類いまれな組み合わせを結合できる唯一の都市になれるのです。

広島は平和です。 この街の生活レベルは非常に高く、まるで楽園で暮らしている気持ちになれるほどです。 それにもかかわらず、このようなぜいたくに慣れてしまうと、その本当の価値を忘れてしまい、あたりまえだと思うようになりがちです。 広島の平穏さと日本社会の安定を、無秩序で危険な、世界の多くの都市と比較しようとするとき、 私は思わず目を閉じて、どれほど多くの違いを享受(きょうじゅ)しているかを考えずにはいられません。
  広島の人々にとって特に身近なケースが1件あります。 何千キロも離れたところで戦時を生き抜いている市民を支援するパートナーシップを7年間行っているケースです。 アフガニスタンにあるカブールと、アフガニスタン奨学プログラムのことです。

広島の藤田(ふじた)前県知事ならびに湯崎(ゆざき)県知事、及び秋葉市長の支援のおかげで、 多くのアフガニスタン政府高官が、広島の戦後の復興プロセスを学ぶために、毎年8ヵ月にも及ぶ研修を受けています。 ヒロシマについて、また1945年の被爆直後に始まった復興プロセスについて学ぶのです。 ユニタールはもとより、広島大学や広島市立大学で教鞭(きょうべん)をとる教授や講師の指導を受けます。 彼らは、研修プログラムの終了に先立つ10日間は広島市に来て、政治的リーダーや識者、ビジネスマンと意見交換をし、 文化事業やラウンドテーブル、フェローシップの公開講座などを通して市民との交流を深めます。 私はここ4ヵ月の間にカブールを2度訪問しましたが、わずか10日ほどの滞在であっても、 広島に戻って戦闘や破壊の音を後にし、弾丸やロケットや爆発音が絶えない戦場から、なごやかで微笑みあふれる清潔な街角に身を置くことがどれほど対照的であるかはご理解いただけると思います。

最近、湯崎知事と交わした会話の中で、知事が就任直後に訪問を受けたアフガン人の1人に、何か特別な印象を持ったと聞いて軽い驚きを感じました。 30年あまりにおよぶ戦闘で険しくなっていた彼の瞳に、信頼と希望を見たというのです。
  知事のおっしゃることは正しいと思います。 アフガン人を広島に連れて来るたびに、私も同じ感想を持つからです。 彼らは広島を訪問し、戦争の後には平和が、破壊の後には復興が、絶望の後には希望があるということを理解するのです。 彼らは信頼を取り戻し、ヒロシマの大使、つまり、平和の大使になるのです。

昨年、アトランタで妻や娘たちに広島は平和だと語ったとき、私は平和というものをわかっていなかったと思います。 しかし今、私はその意味を実感しています。 私たちは平和を継承し、世界平和の実現に取り組んでいるだけではなく、未来の平和の鍵を握っていると思います。 今私は、今後も平和に暮らしていけるであろうことを確信しています。 それが原爆の残した遺産のもう1つの側面なのです。
  1945年8月6日に非業(ひごう)の死を遂げられた犠牲者の子孫たちは、平和な都市を後世に残し、全力で戦争を防ぐ責任を担って行きます。 その子孫たちは、平和は自然に発生するものではないと、世界に絶えず訴え続けるヒロシマの大使なのです。 自分の子供たちを育てるのに、これ以上の場所があるでしょうか? この平和な都市に住むことができるのは、私にとって、私の家族にとって、特別な恩恵なのです。
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