広島平和記念資料館 平成23年度第1回企画展
生きる ―1945, 8, 6 その日からの私―

■期間―12月14日(水)まで
■会場―平和記念資料館 東館地下1階 展示室(5)
被爆者一人一人の人生を見つめ、原爆がもたらした被害の深刻さと「生きる」ことについて考えてみませんか。
原爆は、人にどのような災いをもたらしたのでしょうか。
  原爆が投下された1945年(昭和20年)のうちに、広島では約14万人、長崎では約7万人の人々が原爆で亡くなったと推定されています。 現在、広島市と長崎市の原爆死没者名簿には、合わせて約42万人もの方の名前が記されています。 そして、今も20万人を超える被爆者がいます。
  この企画展では、残された被爆資料や遺品、手記や原爆の絵などとともに10数組の人やその家族の生きざまを紹介します。

■家族の絆
原爆は、無差別に多くの命を奪いました。
  熱線、爆風、放射線によって、瞬時に多くの人が亡くなっただけでなく、倒れた家屋の下敷きとなり、生きたまま炎に包まれる人もいました。 懸命の看病にもかかわらず、家族の前で苦しみながら亡くなった人もいました。 行方不明のままの人もいます。無傷にもかかわらず、原爆症で亡くなる人もいました。
  数知れない悲惨な死を見届けた者の使命は「生きる」ことでした。

佐伯敏子(さいき としこ)さん(被爆当時25歳)
佐伯さんは、被爆の日から70日の間に、実母、兄妹、義父母など親族13人を亡くしました。 佐伯さん自身も原爆症を発症し、また兄弟間でさえ原爆症への偏見(へんけん)があったことに心を痛めました。
  多くの親族を原爆に奪われた佐伯さんは、被爆死した約7万体の遺骨が納められている原爆供養塔の掃除を40年以上続けました。 また、二度と戦争を起こしてはならないと、被爆体験を積極的に語ってきました。
提供/佐伯卓己(たくみ)

きのこ会
原子爆弾による放射線は、胎児にも影響を及ぼしました。 近距離及び妊娠初期の胎内被爆児の中には、頭囲(とうい)(いちじる)しく小さいため、小頭症(しょうとうしょう)と呼ばれ、 日常生活で介護を要する程の知的障害を伴う場合もありました。
  小頭症の子を持つ親たちは、20年もの長い間、同じ境遇(きょうぐう)の人たちがいることを知ることもなく、 自分たちだけで悩み、苦しみながらひっそりと暮らしていました。
  作家の山代 巴(やましろ ともえ)さんらの呼びかけで発足した「広島研究の会」の調査により、 小頭症患者とその家族の実態が明らかになり、1965年(昭和40年)、小頭症患者と親たちの会「きのこ会」が結成されました。
  「きのこ会」は、国へ小頭症患者への支援を訴え続け1967年(昭和42年)、国は小頭症と原爆の因果関係を認めました。

畠中(はたなか)さん親子
1945年(昭和20年)8月6日、畠中百合子(ゆりこ)さんは、 母親の敬恵(よしえ)さんのおなかの中で被爆しました。 翌年に生まれた百合子さんは小頭症で、3歳になっても歩くことができず、日常の生活でも介護が必要で、小学校にも入学できませんでした。
  1965年(昭和40年)、父親の国三(くにぞう)さんは「きのこ会」に参加し、初代会長に就任しました。
  1978年(昭和53年)、「百合子を残しては死ねない」と言い続けた敬恵さんは、(がん)により亡くなり、 また、国三さんも2008年(平成20年)に亡くなりました。 現在百合子さんは、妹さんたちと暮らしています。
畠中さん親子はいつも一緒。百合子さんは、両親が営む理髪店で一日を過ごしていました。
1973年(昭和48年)7月撮影/重田雅彦(しげた まさひこ)
■異国の地で
原爆がさく裂したとき、広島には35万人前後の人々がいたと考えられています。 これは、住民、軍関係者、建物疎開(たてものそかい)作業に動員された周辺町村からの人々などを合わせた数字で、 朝鮮、台湾や中国大陸からの人々も含まれ、その中には強制的に徴用(ちょうよう)された人々もいました。 また、中国や東南アジアからの留学生、ドイツ人神父、アメリカ兵捕虜(ほりょ)や白系ロシア人などの外国人も含まれていました。
辛泳洙(シン ヨンス)さん(被爆当時26歳)
朝鮮で生まれた辛さんは、1942年(昭和17年)、広島にあった軍指定の製薬会社に徴用されました。 辛さんは、幟町(のぼりちょう)の電停で被爆し、上半身に大やけどを負い、同年末、故郷に戻りました。
  朝鮮に戻った原爆被爆者の多くは、辛さんのように原爆症と貧困に苦しんでいました。 辛さんは、1970年(昭和45年)、在韓被爆者の救援に自分の余生を捧げる決意をし、在韓被爆者にも日本の被爆者と同等の援護を求める運動に力を注ぎました。
  1974年(昭和49年)、渡日治療中に被爆者健康手帳を取得。 海外に住む外国人被爆者の援護への道を開くきっかけとなりました。
提供/辛亨根(ヒョングン)

提供/F・J・モール氏
クラウス・ルーメルさん(被爆当時28歳)
ルーメルさんは、1937年(昭和12年)に来日しました。 主に東京で過ごしますが、空襲(くうしゅう)がはげしくなり、1945年(昭和20年)1月初め、広島に疎開し、長束修練院(ながつかしゅうれんいん)で被爆しました。 ルーメルさんは、多くの被爆者の治療・看護にあたりました。
  戦後は「戦争を嫌い、平和を愛する全人類の共通した意識は、大人になってからではなく、子どもの時から(つちか)う必要がある」と述べ、平和教育に力を注ぎました。
■伝える
私たちが、66年前の出来事を知ることができるのはなぜでしょうか。
  生きることで精一杯の状況にありながらも、被爆の体験を風化させてはならないと、被爆の状況や失われた命について、記録し、残すことを使命とした被爆者がいました。
松重美人(まつしげ よしと)さん(被爆当時32歳)
松重さんは翠町(みどりまち)の自宅で被爆。 被爆直後、勤務先の中国新聞社に向かうため、市街地に入ろうとしましたが、火災のため入ることができず、御幸橋(みゆきばし)まで引き返しました。 報道カメラマンである松重さんは、地獄のような光景を前に、なかなかシャッターを切ることができませんでした。 30分以上葛藤(かっとう)した末、心を鬼にしてシャッターを切りましたが、 「被災者は私のことを無慈悲(むじひ)に思ったのでは」という思いが残りました。 8月6日に松重さんが撮影した5枚の写真は、歴史の証人です。
提供/松重美人氏
1945年(昭和20年) 8月6日
御幸橋西詰(午前11時過ぎ頃)
撮影/松重美人氏
所蔵/中国新聞社
■平和への思い
悲惨な被爆体験を持つ多くの被爆者は、生き残ったゆえのつらさを抱えながらも、「亡くなった人たちから自分たちに託されたことがあるのではないか」。 「平和な世界を築くために自分たちができることは何なのか」。 自問自答を繰り返します。
提供/片岡恒子(つねこ)
片岡 脩(かたおか しゅう)さん(被爆当時13歳)
片岡さんは、広島県立第一中学校1年生の時、校舎内で被爆。 原爆で父親と兄を亡くし、また片岡さん自身も原爆症に苦しみ続けました。
  片岡さんは、早くから商業広告の第一線で活躍するようになりました。 被爆40年後の1985年(昭和60年)に、静かな訴えと自分なりの思いを込めた「平和ポスター」を発表します。 100枚の完成を目指していましたが、1997年(平成9年)、70数点を制作したところで亡くなりました。
平和ポスター(1995年)
寄贈/片岡恒子氏
戦争が終わり、生き残った被爆者は、「体験した者にしか分からない」思い出したくもない記憶と健康への不安を抱え、偏見や差別による苦しみや悲しみを飲み込み、乗り越えながら暮らしてきました。 「二度と自分と同じ思いをさせてはならない」という被爆者の強い思いは、逆境に立ち向かって「生きる」ことで培われたのではないでしょうか。
  被爆者一人一人の生きざまを見つめ、家族の思いにふれることにより、「生きる」ことの尊さを感じていただければと思います。

【お問い合わせ】 平和記念資料館 学芸担当まで
TEL (082)241−4004

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