広島平和記念資料館平成24年度第1回企画展
基町 姿を変える広島開基の地

■期間: 12月12日(水)まで
■会場: 平和記念資料館 東館地下1階 展示室(5)
広島城の外堀と太田川(おおたがわ)に囲まれた城郭(じょうかく)一帯は、 「広島開基の地」であるとのことから、基町(もとまち)と呼ばれるようになりました。 明治時代から昭和初期にかけて、基町には軍の施設が次々と設けられ、軍都を象徴する町となっていきました。
  1945年(昭和20年)、原子爆弾の投下により、爆心地に近かった基町は壊滅的な被害を受けます。 被爆後、市の中心に現れた広大な土地は性格を一変します。 家を失った人々の住宅地として、また、公園、図書館、市民球場など、人々が集う場所として、広島の復興に大きな役割を果たしました。
  今回の企画展では、広島の歴史の縮図ともいえる基町の、今日までの歩みをたどります。

■軍都の中心
1871年(明治4年)、広島城の本丸に鎮西鎮台(ちんぜいちんだい)の第一分営が設置され、 1873年(明治6年)に第五軍管広島鎮台、1886年(明治19年)には第五師団と名称を変え、広島の軍隊は増強されていきました。 基町はさまざまな軍関連の施設で埋め尽くされるようになりました。

大本営(だいほんえい)の設置
大本営は天皇のもとで戦争を指導する最高の機関です。 1894年(明治27年)8月、日清戦争が始まった当初は東京に置かれていましたが、 戦況の変化に迅速に対応するため、大陸への出兵基地となっていた広島に移されました。 明治天皇は、1894年(明治27年)9月15日から1895年(明治28年)4月27日まで、基町にある第五師団司令部を大本営として、軍隊を指揮しました。
錦絵「広島県御安着之図」
広島城内の大本営に入る明治天皇を描いた錦絵。
所蔵/広島市公文書館
○臨時帝国議会の開会
1894年(明治27年)10月18日、西練兵場(れんぺいじょう)に建設された仮設の議事堂で、明治天皇臨席のもと開院式が行われました。
臨時帝国議会仮議事堂
広島城郭内の西練兵場に建設された仮の議事堂。
所蔵/広島市公文書館
招魂祭 1934年(昭和9年)
作者/上西 薫(かみにし かおる)
○市民の(いこ)いの場
基町はさまざまな軍事施設が並ぶ軍用地ではありましたが、市民に開かれた場所でもありました。
  広島城の南側、大手郭(おおてくるわ)に設けられていた西練兵場では、 戦死者の慰霊のため広島招魂祭(しょうこんさい)が行われました。 競馬やオートバイレースが開催され、屋台や見世物小屋で(にぎ)わい、市民の大きな楽しみとなっていました。
■壊滅
中国軍管区司令部を中心に、歩兵・砲兵・輜重兵(しちょうへい)の各兵舎や、その他陸軍病院などの施設は倒壊、炎上し、基町は壊滅状態となりました。
部下の遺品―革財布・メダル・腕時計
中国軍管区司令部兵器部修理所長だった八束 要(やつづか かなめ)さんは、 毎日修理所の焼け跡で部下の遺骨や遺品を掘り出し、遺族に届けました。 これらは持ち主が分からず保管していたものです。
寄贈/八束要氏
■再建から再開発
基町は爆心地に近く、壊滅的な被害を受けました。国有地であった広大な旧軍用地は、戦後は公共用地として計画されました。
  基町の東半分に官公庁や病院、学校などが整備される一方で、西半分の大半は公園用地とされました。 しかし、原爆により住宅を失った多くの市民のために、公園用地とされた場所は応急的に住宅地とされることになりました。
○急ごしらえの住宅
住宅営団が1946年度(昭和21年度)中に743戸を建設したのをはじめ、 市営住宅が1038戸、 県による引揚者(ひきあげしゃ)住宅が34戸建設されました。 1949年(昭和24年)ごろには、合わせて1815戸の住宅が建設されていました。
基町の公営住宅
1947年(昭和22年)8月〜10月17日
撮影/菊池 俊吉(きくち しゅんきち)氏  提供/菊池 徳子(とくこ)
○不法住宅の建設
公的な住宅を数多く建設しても、住宅不足は深刻でした。 土地を持たない人々は、やむを得ず河川敷(かせんじき)などに住宅を建て始めます。 相生橋(あいおいばし)東詰から三篠橋(みささばし)東詰までの約1・5キロメートルにおよぶ太田川土手沿いに、不法住宅が集中して建てられました。
太田川土手沿いに密集するバラック住宅
1962年(昭和37年)7月
所蔵/中国新聞社

○火災
道路が狭く、消火施設も不十分で、ひとたび火の手が上がると大火災になりました。

○再開発へ
基町一帯はもともと中央公園として計画されていましたが、広島市は一部分を住宅用地に変更し、老朽化(ろうきゅうか)した住宅の代わりに中層住宅団地を建設することとしました。
  中層住宅団地の建設は1,894戸の予定でした。   しかし、公的住宅の建て替えだけでは、老朽化した不法住宅を整理することができず、新たな再開発が必要となりました。
1969年(昭和44年)3月18日、国は、「広島市基町地区」の名称で基町西側一帯を改良地区に指定し、約10年間に及ぶ基町地区の再開発がスタートしました。
大火災
1967年(昭和42年)7月27日
所蔵/中国新聞社
○再開発が終わって
1978年(昭和53年)9月に最後の高層アパートが完成し、基町地区再開発事業が終わりました。 基町地区に建設された高層住宅は2,964戸で、白島(はくしま)長寿園(ちょうじゅえん)地区に建設された高層住宅を含めると4,566戸にもなりました。
  住宅だけではなく、ショッピングセンターや小学校、幼稚園、保育所、その他中央集会所や集会室なども造られました。 また、高層アパートの屋上には遊歩道や庭園が設けられ、市内や瀬戸内海(せとないかい)の景色が望めるくつろぎの場所となりました。
再開発事業が終了した基町
1978年(昭和53年)9月26日
所蔵/中国新聞社
■にぎわいの場へ
基町の西側大半は公園用地として計画されました。 その南側部分には、さまざまな文化施設やスポーツ施設が建設されていきました。
原爆参考資料陳列室
1949年(昭和24年)9月25日
所蔵/中国新聞社
○平和への歩み
1949年(昭和24年)7月、現在の相生通り沿いに建つ広島商工会議所の東隣りに中央公民館が建設され、その一室に同年9月、原爆参考資料陳列室が開設されました。 被爆瓦など原爆関係の資料が展示され、現在の平和記念資料館の前身となりました。
○広島城
1958年(昭和33年)、広島復興大博覧会の会場の1つとして再建され、ほぼ被爆前と同じ姿を現しました。 市民の身近な存在だった広島城天守閣(てんしゅかく)は、基町のランドマークとして復元され、広島の復興を見守ることになりました。
再建が進む広島城天守閣
1957年(昭和32年)
所蔵/中国新聞社
○広島市民球場
竣工した広島市民球場
1957年(昭和32年)7月
撮影/佐々木 雄一郎(ささき ゆういちろう)氏  提供/塩浦 雄悟(しおうら ゆうご)
1950年(昭和25年)に広島カープが結成され、球団関係者や市民から、市の中心部への球場建設を求める声が上がりました。 児童文化会館の北側、公営住宅が建っている場所や、 西練兵場跡にあった広島護国(ごこく)神社跡地、合同庁舎建設予定地などが候補となりましたが、 住民の立ち退き反対運動や、国との交渉により難航しました。
  1956年(昭和31年)7月、ようやく児童文化会館前の児童公園東南に建設することが決定し、財界からの寄付により1957年(昭和32年)7月に完成しました。
  広島市民球場は、広島カープのホームグランドとしてのみならず、市民のレクリエーション施設としても利用されました。
■そして、今
原爆による惨禍(さんか)から目覚ましい復興を遂げた基町には大規模な商業施設が建設され、 また、都心の公園には文化・スポーツ施設が整備され、日々多くの人々でにぎわっています。
  新しい施設が整備されていく一方で、姿を消していくものもあります。 戦後、広島の復興を市民とともに支えてきた広島市民球場は、今、その役目を終え、ライト側外野スタンドの一部を残し、新たなスタートを切ろうとしています。
現在の広島市民球場跡地
2012年(平成24年)5月
撮影/広島平和記念資料館  協力/株式会社広島マツダ
基町地区再開発事業完成記念碑にある「この地区の改良なくして広島の戦後は終わらない」という言葉は、 言かえれば、基町の再開発が終わったことで、広島が本当の意味で戦後の復興を遂げたということを示しています。
  しかしその一方で、今もひっそりと暮らしている被爆者の姿があります。 かたくなに自分の過去を語らず生きている人々は、現在の復興をどう思っているのでしょうか。
  私たちは、復興の陰で、原爆ですべてを失いながらも懸命に生きてきた人々の労苦があったということを、決して忘れてはいけません。

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広島平和記念資料館 学芸課
TEL:082-543-6271

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