“ヒロシマの心”を発信する人々
平和の音色を届けて
矢川ピアノ工房 ピアノ調律師 矢川光則さんに聞く
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毎年8月6日、平和記念公園の被爆アオギリの傍らで「アオギリ平和コンサート」が開かれています。
美しい音色を響かせるのは「被爆ピアノ」。
このピアノを修復し、各地で平和コンサートを開いておられる矢川光則さんにお話を伺いました。
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被爆ピアノとの出会いは
20年ほどまえにピアノ工房を立ち上げて以来、家庭に眠っているピアノを引き受けて再生し、国内外の学校などの施設に贈るボランティア活動を行ってきました。
その活動の中で、原爆の廃虚の中で奇跡的に無事だったピアノを、その所有者から託されました。
貴重な被爆資料として、できるだけ部品は変えずに修復しているので、当時(被爆前)とほぼ同じ音色を聞くことが出来ます。
現在は4台が私の工房にあります。
コンサートを開くきっかけは
2001年に、被爆者の沼田鈴子さんとアオギリ平和コンサートを始めました。
被爆アオギリの下で、沼田さんの被爆体験証言と被爆ピアノのコンサートを組み合わせて行う試みです。
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被爆ピアノ「ミサコのピアノ」。爆心地から1.8kmの民家にあった。建物がコンクリート造りだったため焼失は免れたが、表面には無数の傷が残る。椅子も当時のまま。
(写真をクリックで拡大します)
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2004年に長崎平和音楽祭に招かれ、それが県外でも被爆ピアノのコンサートを開くきっかけになりました。
被爆60周年に当たる2005年には愛知万博でコンサートを行い、その他にも、これまで43の都道府県でコンサートを行ってきました。
2010年、アメリカ・ニューヨークでの同時多発テロの犠牲者追悼のための被爆ピアノのコンサートが、世界でもコンサートを開くきっかけになりました。
アメリカは原爆を投下した国ですから、国内からも色々と批判がありましたが、
アメリカ側からは、亡くなった私の父も昔は消防士だった縁で、ニューヨーク市消防局の全面協力を受けることができました。
(2001年9月11日のアメリカ同時多発テロでは、救助に向かったニューヨーク市の消防士、343人が犠牲となりました。)
私の父は、当時は大手町にあった広島西消防署(爆心地から約800メートル)で被爆しました。
父は、当時の消防士が腰に下げていた刀で、崩れた天井を破って脱出し、生き延びました。
父の体験は「原爆広島消防史(広島市消防局発行/1975年)」に詳しく載っています。
ニューヨークでは現地の人たちから話を聞く機会も多かったのですが、建前は別として、7、8割の人は核兵器に反対しているように感じました。
それこそが、広島・長崎の後、一度も核兵器が使われていない理由ではないでしょうか。
核兵器は使ってはいけない、恐ろしい兵器だと理解されているようでした。
これは、広島・長崎がこれまでずっと訴え続けてきたことの成果だと思います。
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爆心地から2kmの小学校にあったグランドピアノ。6本脚で、重さは600kg以上。破損が大きく、矢川さん(手前)により大幅に修復された。
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コンサートが開かれるまで
ピアノの調律だけでなく、輸送やピアニストの手配も殆ど自前で行っています。
一番重いグランドピアノはさずがに運べないので輸送業者に頼みますが、その他のピアノは工房でピアノを分解・梱包してトラックに乗せ、自分で運転して目的地まで運びます。
現地で組み立て、会場に設置し、コンサートが終ると同じように自分で運んで工房に戻ります。
最近は年間に140回程度の依頼があり、これまで各地で900回以上のコンサートを行ってきました。
修学旅行生のためのコンサートは、最近は年に40回くらいでしょうか。
コンサートの前に話を頼まれた時は、要約して短く終らせるよう気を付けています。
子ども達に「広島に行ったら辛い話を長々と聞かされた」と落ち込んで欲しくないのです。
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辛い話もありますが、子ども達には希望を持って、また広島に戻ってきてもらいたいのです。
これからの活動について
日本国内でも、広島・長崎以外の人には、被爆の実相がまだまだ伝わっていません。
「被爆ピアノから放射能が出ていますか?」という質問を受けることもあります。
無知や偏見からくる質問を受けた時にも、きちんと答えることが出来るよう、自分でも基本的なことを勉強しています。
被爆ピアノのコンサートを続けることは平和の種まきのようなものです。
ですが、この活動を息子に継がせたいとは思いません。
息子もピアノの調律や修復を学びましたが、被爆三世である彼の時代には、この活動が終っていればいいと思います。
被爆者の時代に無理なら、せめて被爆二世の私の代で核兵器を廃絶し、そこから先には核兵器の無い平和な時代が来ることを願っています。
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(平成24年8月取材)
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