被爆体験記
「今を生きる」
本財団被爆体験証言者 白石 多美子
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プロフィール 〔しらいし たみこ〕
1939年(昭和14年)生まれ。
小学校1年生であった7歳の時、爆心地から4km離れた学校の教室で、本を開いたときに被爆。
60歳で定年退職後、2000年(平成12年)からピースボランティアとして活動。
今年度からは本財団被爆体験証言者として活動を始めた。
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私の被爆体験
1945年8月6日は、朝から雲一つない快晴で、お日様がキラキラ照りつけていました。
私は宇品国民学校(爆心地から4km)の1年生で、7歳でした。
いつもの通りに運動場を少し走り、机の横に防空頭巾をかけ、鞄から本を出して開いた時に、右側の天窓から青白い光が見えました。
何だろうと思った時、耳を突き抜けるようなドーンという轟音と同時に窓ガラスが割れて、その破片が飛んできました。
教室の中は一瞬にして大騒ぎになり、廊下の下駄箱へと泣きながら我先に行きましたが、靴や下駄は見当たりませんでした。
私は学校から自宅まで裸足で帰りました。
帰る道にはガラスの破片がいっぱい飛び散っていました。
家の前では母が私を待っていてくれました。
私は頭に2か所、左手内側に2か所、そして足の裏には無数のガラスが刺さっていましたが、幸い軽傷でした。
母がピンセットで小さなガラスを少しずつ抜き取ってくれました。
夜になり、眠りたくても眠ることの出来ないまま横になっていると、何の音か分からない、何かを引きずるような音が、家の前の道から聞こえていました。
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いつの間にか眠り、翌朝、母に起こされて身支度をして、外を見ると、その音が何であったか分かりました。
髪の毛がチリチリになって立ち上がり、顔のほうから皮膚が垂れ下がり、その皮膚を引きずりながら避難する人たちの音だったのです。
祖母の被爆
祖母は穏やかで優しい人で、向洋のほうに母の弟と一緒に住んでいました。
1週間に1度くらい、籐で編んだ乳母車を押して、南京やさつまいも、その葉や茎などを私の家まで歩いて持ってきてくれました。
祖母は8月6日の朝、いつものように私たちの私たちの家に行くと言って出て行ったまま、原爆に遭ったのです。
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市民が描いた原爆の絵/作者 吉村 吉助 氏
「衣服は引き裂け皮膚はたれ下がりこの世の人とは思えぬ姿の負傷者たち。声も立てず黙々と郊外へ逃げていく。」
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翌7日から、祖母を探しに爆心地付近まで救護所を次々回りました。
一人で留守番をさせられないからと、母は私も一緒に連れて行きました。
救護所に入ると、何とも言い表すことのできない臭いがしました。
その臭いは、人も、動物も、植物も、建物も、ヒロシマの全てを焼き尽くした臭いだと思いました。
今でもその臭いを忘れることはできません。
8日のこと、多分、八丁堀近くの救護所だと思います。
私の足をつかまえて「水を」と言った人がいました。
壊れた蛇口から水を手で受けて、その人の所に持って行きました。
唇に水が1、2滴落ち、その人が「ありがとう」と言ったように聞こえた時、「その人に水をあげたらいけん」と言いながら私を突き飛ばした人がいました。
すると少しして、その人が動かなくなりました。
「あんたが水をあげたから、この人は死んだんよ」と言われたのが、今でも耳に残っています。
街には、家の下敷きになり手を挙げて死んでいる人、目を見開いて空を睨みつけるように道端に転がって死んでいる人、家の土壁の間に挟まれて半分焼かれ、もう半分は煤けたまま焼けていない状態で残っている人もいました。
その時は本当に怖かったのですが、必死で母の後を追いかけました。
そんな所では母は手を合わせて通っていました。
私も母と同じように手を合わせて通りました。
人だけではなく、たくさんの馬も死んでいました。
中にはお腹がパンパンに腫れ上がった馬もいました。
先へ進むためには、たくさんの死んだ人たちや馬をまたいで行かなくてはなりませんでした。
9日、牛田のほうの救護所をいくつか回り、やっと祖母を見つけました。
祖母は背中一面真っ黒に焼けて、うつ伏せになっていました。
祖母を宇品にあった陸軍船舶部隊の施設に運んでもらうことができ、私も看病に行きました。
私のすることと言えば、祖母の背中の傷にハエが止まるのを団扇で追い払うことです。
それでもハエは傷口に止まり、いつの間にか卵を産みます。
私の役目は体内に入ろうとする蛆虫を取ることでした。
祖母は亡くなる前日に「しいちゃん(私の母)の作ったおすしが食べたい」と言いましたが、材料が手に入らず、結局、おすしを食べることができないまま亡くなりました。
心の傷 (トラウマ)
被爆してから、私は眠れない日が多くなりました。
原爆の恐ろしい場面が夢に出てくるようになり、原爆が投下された場面を思い出して飛行機が怖くなり、飛行機が飛んで来るたびに部屋の隅に隠れるようになりました。
母が話した辛い話
小学3年生になった春、私は40度の熱と血便が止まらなくなり、赤十字病院に入院しました。
医者は 「菌の出ない腸チフスだろう」と言っていました。
高熱と下痢で体は衰弱し、うわ言を言うようになった私のことを、病院の洗濯場で「今日も大きな声を出していたよ」「あの子はまだ死んでないんじゃね」と母に話しかけてきた人がいたそうです。
私にその話をした母の、辛そうな姿が今でも目に浮かびます。
その後、1年間休学して体調が良くなり、小学校4年生の時に復学することができました。
しかし学校に行くと、「こいつは原爆にあっているから近くに寄るな、近づくと病気が移る」と同級生の何人かにいじめられ、学校に行けなくなった時期もありました。
つらいことがあって、しょんぼりしていると、母は「女の子は笑顔が一番。笑顔で人にやさしい言葉をかけると相手の人からも笑顔が返ってくるよ」と言っていました。
それが母の口癖でした。
中学校は、市内の私立中学校を受験しました。
中学校では私を知らない人ばかりなので、被爆したことでいじめる人がいなくなり、私は日々元気に通学しました。
私は21歳で結婚しましたが、夫には私が被爆者であることを当分の間、言えませんでした。
結婚後1年で長男が生まれましたが、未熟児寸前で体の弱い子でした。
私が被爆したことで体が弱い子が生まれたのではないかと、長男が13歳くらいになるまでずっと主人に話せませんでした。
被爆ということは、その時だけでなく、ずっと後まで背負っていかなければいけません。
これからを担う皆さんへ
私は母の死がきっかけでピースボランティアをはじめましたが、それまでは被爆体験や祖母の被爆死について話すことができませんでした。
できることなら忘れ去りたいと心の奥にしまいこんでいたのです。
しかし、活動をしているうちにヒロシマや原爆のことを知らない人が多いことに気づきました。
私たち被爆者が生きている残り時間は、みなさんに比べて長くありません。
原爆がこのような醜いことを引き起こすことを覚えていてください。
平和な世界が続くよう、皆さんが核兵器廃絶について考えていって下さることを願っています。
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