“ヒロシマの心”を発信する人々
「平和の鐘」響け再び実行委員会
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平和記念式典は、「平和祭」として被爆2年後の昭和22年(1947年)から始まり、昭和25年の中断をはさんで、毎年行われてきました。
式典で鳴らされる「平和の鐘」は現在のもので5代目ですが、歴代の鐘の中で、原爆の焼け跡の金属が鋳込まれた現存する最古の鐘があります。
昭和24年、広島銅合金鋳造会(以下、鋳造会という)が広島市に寄贈し、広島市中央公園に設置されている2代目の平和の鐘です。
被爆から70年の今年、昭和24年の平和祭で一度使われたきりになっているこの鐘を、再び原爆の日に鳴らそうという記念式が「『平和の鐘』響け再び実行委員会」により開催されました。
代表の高東博視さんにお話を伺いました。
活動のきっかけは
「父たちが造った鐘をもう一度鳴らして欲しい!」昨年の秋、鋳物師の遺族の願いを、私の近隣の篤志家を通して初めて耳にしたのです。
早速、平和の鐘の由緒を調べてみると、2代目の鐘は、広島市民にとって非常に重要なものであるにもかかわらず、市民はもちろん所有者である広島市からも一時期忘れられた存在だったことを知り、鐘が日の目を見るようにしないといけないと強く感じました。
また、この鐘は昭和24年の広島平和記念都市建設法制定を記念して広島市に寄贈された経緯があるのですが、私は広島市役所に在職中、この法律の事務を担当したことがあります。
また、旧広島市民球場に勤めていた頃には、鐘の由緒など良く知らずに、球場裏手の鐘のそばを散策していたことを想い出し、何かの縁を強く感じました。
2代目の平和の鐘とは
鐘について調べる中で、昭和49年7月24日の中国新聞夕刊の記事を発見しました。
当時、鋳造会会長だった松村米吉さんのインタビュー記事です。
“昭和24年、戦後すぐの貧乏な時代、みなが私財を投じ、時間と労力を注ぎ込んで、やっと造って広島市に寄贈した鐘。
当時の浜井信三市長の要望で洋式の鐘とし、原爆の焼け跡から集めた金属を鋳込んだ。
平和祭で鳴らされたときは、これで霊が慰められると涙がこぼれ、もう死んでもいいとさえ思った。
しかし、一度の式典で鳴らされただけで、ほったらかしになっている。
寂しいことだ。”
そんなことが記事には書かれています。
私はこの記事に心を強く動かされ、この鐘が日の目をみるよう行動しようと決心ました。
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「平和の鐘、爆心地へ」
金銀朱塗りのクラをのせた牛7頭、馬3頭に引かれて運ばれる2代目の平和の鐘。
(中国新聞社出版「被爆50年写真集 ヒロシマの記録」より)
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実行委員会の立ち上げ
今年の2月はじめ、私は集めた資料を市役所に持ち込み、被爆70周年記念事業として2代目の平和の鐘を平和記念式典に活用して欲しいと要望しました。
しかし、その時すでに記念事業の中身は固まっていました。
そこで、市民の手(市民組織)で鐘の響きを復活させてはどうか、と逆に提案を受け、その方向で進めることにしました。
様々な市民組織の形を考えましたが、昭和24年当時の鋳造会の遺族を中心に団体を作るのが良いだろうと考え、遺族を探し始めました。
しかし、鋳造会は半世紀以上も前に解散し、当時の名簿さえ全く無い状態ですから、5月時点で当時の鋳造会13社中6社の遺族しか見つかりませんでした。
記念式の準備期間も十分なく、実務的な実行委員会を立ち上げ、判明した限りの遺族を招待して鐘を鳴らすことにしました。
広島の街づくりボランティア仲間有志に賛同してもらったので、急いで規約を作成して6月に実行委員会を立ち上げ、私が代表を務めることになりました。
調査の過程での発見と出会い
松村米吉さんの遺族である松村伸吉さんとお会いすることが出来、この方が貴重な当時の写真や新聞記事を保存しておられ、これが遺族探しの大きな力になりました。
調査を続ける中で、鐘の完成時の記念写真に写っている方、2人に実際にお会いすることが出来ました。
ご高齢ですが、思い出深く当時のことを話していただきました。
また、古い町村誌や古老の話などを頼りに鐘が鋳造された場所を突き止めたときは感激しました。
現在は工場の跡形もありません。
昔の新聞記事等を頼りに調査を続ける最中、地元新聞社の関心をひき、記事として取り上げてもらいました。
この記事を読んだ遺族から連絡があり、新たに貴重な資料の発見へと繋がったこともありました。
「平和の鐘」響け再び記念式
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8月6日の記念式には、実際に鋳造に携わった方のお一人も、ご高齢を押して参加してくださいました。
鋳造会や浜井市長のご遺族ほか広島合唱同好会など100人余の方々に参加いただき、66年ぶりに鐘を打ち鳴らし、全員が感動に浸りました。
実際に鐘を鳴らしてみると、洋式の鐘なので、寺の梵鐘のような長い余韻のある響きではありませんでしたが、多くの仲間を原爆で亡くした製作者たちの無念と平和を願う心の響きと受け止めました。
また、鐘に焼け跡の金属が鋳込まれていることを知っているためか、原爆で亡くなった人々の叫びのようにも感じられました。
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記念式の様子
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これからの活動は
「これからも毎年8月6日に式典を続けていこう」が実行委員会の総意です。
まず今回の記念式の報告書をまとめ、それから今後の鐘の活用案を考えていきます。
4年後の広島平和記念都市建設法制定70周年の記念行事での活用や「平和の鐘・絵本」つくり等の案も出ています。
また、今回の調査で集めた貴重な資料を残し伝えるためにも、2代目の鐘を中心に、広島にたくさんある「平和の鐘」を整理して1冊の本にまとめておきたいと考えています。
何年かかるかわかりませんが、鐘の製作者の方々の熱い想いを胸に頑張ってゆきたいと思います。
ありがとうございました。
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(平成27年10月15日取材)
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(総 務 課) |
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