被爆体験記
8才の記憶「ヒロシマ」
本財団被爆体験証言者 八幡 照子
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プロフィール 〔やはた てるこ〕
2013年、外務省より非核特使として委嘱。
ピースボート「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」に参加。
2019年より(公財)広島平和文化センター被爆体験証言者として活動開始。
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太平洋戦争末期
私は8才のとき被爆しました。
その前年、広島市己斐国民学校に入学。
校門を入ると桜が満開で、花びらがひらひらと舞って校庭を薄桃色に染めていきました。
ラジオをつけると、「大本営発表! 敵航空母艦撃沈セリ。我ガ方ニ大ナル損害ナシ」と勇ましい声が響きます。
しかし次第に戦局は厳しくなり、朝礼の後、上級生が「命一つとかけがえに百人千人斬ってやる」と歌いながら行進していました。
日本は絶対勝つと信じ、本土決戦の決意をしていたのです。
8月6日 きのこ雲の下で
あの日、空は晴れて爽やかな朝でした。
爆心地から2.5km離れた己斐本町の自宅には、父方の曾祖母、祖母、両親、姉、私、弟二人の8人がいました。
朝食後、私は隣に行くため裏庭に下りた時です。
突然、窓がピカーッと青白く光りました。
とっさに私は地面に伏せようとして、意識を失いました。
「みんなここに集まりなさい!」母の叫び声に気がつくと、辺りは見えないほどの土煙。
家の中はひっくり返り、廊下のガラスが倒れたふすまに、びっしり矢のように刺さっています。
私は裏庭から玄関まで、5、6m吹き飛ばされていました。
「みんなで死のう! みんな一緒よ」母は悲壮な声で大きな掛布団を家族の上に広げました。
第2、第3の大型爆弾がきたら、もう助からないと思ったのです。
布団を被り肩を寄せ合った、あの時の家族のぬくもり、子ども心に感じた家族の絆を今も忘れません。
外は、家々がすべて半壊で異様な静けさでした。
避難した山裾に大粒の雨が降ってきて、私達はずぶ濡れになりました。
これが「黒い雨」だとは知る由もありません。
己斐の河原に引き返す途中、市中から逃げてくる人達の姿に足がすくみました。
髪の毛は逆立ち、全身大やけど。
土埃で汚れ、めくれた腕の皮膚が、への字に曲げた手の指先にボロ布のように垂れ下がっています。
ただれた体を引きずって何十人、何百人の人が押し寄せてきて、幽霊の行列のようでした。
市街地は一晩中燃え続けていました。
8月9日 火葬場と化した校庭
幸い家族は、怪我はしましたが何とか無事でした。
私は額の傷の治療のため、父と学校の救護所に行きました、校門を入ると、悲鳴とも呻き声ともつかないざわめきが聞こえてきました。
教室にも廊下にも大やけどを負った人達がぎっしり横たわっています。
顔は火膨れでみんな目が開いていません。
亡くなった人達は担架で運動場に運ばれ、幾筋も掘られた穴に放り込まれるようにして
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荼毘に付されています。
真夏の熱気で、燃え盛る火に陽炎が燃え、黙々と作業する人の姿が揺れていました。
吹き上がる煙の異臭が学校中に漂っていました。
そんな中、校門の近くで机の上にハガキ大の白い紙袋が並べられていました。
「お菓子配っとる!」お腹がペコペコだった私は飛んでいってみました。
そして、がっかりしました。
袋の中身は骨だったのです。
捜しにきた肉親が、せめてもの供養にと持ち帰ったと言われます。
ここで荼毘に付された約二千人と記録されている遺体の中には、建物疎開作業中に犠牲になった中学生、女学生の一、二年生が多かったと聞きます。
どんなに苦しかったことか。
どんなに生きたかったことか。
一瞬のうちにすべてを失いました。
かけがえのない命
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市民が描いた原爆の絵 「国民学校校庭で火葬する消防団、自警団の人々」 (作者 津沢 与吉)
「八月十二、三日の頃新型爆弾が投下されて一週間被爆者も次々と倒れて処置に困ったことヽ思ふ。
小学校の校庭に長い横穴を堀って火葬にしていた。
照りつく暑さ 近郷近在より集った消防団自警団の手で焼かれた。
腐敗しているので臭氣甚だしく急造の担架竹の先に針金の輪を作り運んでいた。
白く灰色の煙は己斐駅の方から山の手の方に見いた。」
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2013年、私はピースボートの「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」に参加しました。
私達はこの広い地球に生まれ合わせ、国や言葉は異なっても同じ時代を生きています。
百年というライフステージに陽は昇り、陽は沈み、寄せては返す波のようにかけがえのない日常があります。
あなたの愛する人は誰ですか。
あなたの守りたいものは何ですか。
今、一発の核兵器が使われたとしたら、人類は滅亡します。
被爆の実相を伝え、世界に警鐘を鳴らし続けることが、今を生きる私に出来ることです。
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