和文機関紙「平和文化」No.208, 令和4年1月号
被爆体験記

「平和がどんなに大切なものか」

若山 登美子
(わかやま とみこ)
本財団被爆体験証言者
若山登美子さん

広島に大きな爆弾が落ちる
 私は当時、国民学校一年生で6歳でした。 家は鉄砲町(てっぽうちょう)(爆心地から900m)にあり、父(40歳)、母(33歳)、私、妹(2歳)の4人家族でした。 学校では授業もありましたが、戦争中でしたので、空襲(くうしゅう)から身を守るため机の下にもぐる事や安全な場所に身を隠す事を教わり、ほとんどがそういう内容だったと記憶しています。
 母に聞いた話では「広島に大きな爆弾が落ちる」という内容のビラが空から落ちてきたそうで、父が母に強く「疎開(そかい)しなさい」と言い、双三郡河内村(ふたみぐん こうちむら)にあった母の実家に疎開しました。 父は仕事があり、町内のお世話もしていましたから、広島に残りました。
 昭和20年(1945年)8月7日、「昨日、広島にこれまでに見たこともない大きな爆弾が落ちた」という話を聞きました。 父が河内に来ないので、8月9日、父を捜すため、おばと母が私と妹を連れて4人で広島市内に向かいました。
広島へ
 河内村から約6km歩いて三次(みよし)駅に着きました。 爆心地からおよそ60kmも離れている三次駅にも広島で被爆した人たちが運ばれて来ていました。 そこで見たのは、頭の髪はジリジリになって無くなり、顔がまん丸く腫(は)れ上がって赤黒い色になり、目がつぶれた人で、男か女かもわかりません。 首から下によごれた灰色の布が掛けられており、担架に乗せられ運ばれて来ました。 「お父ちゃんかね?」と言って、4人でのぞいて見たけれど、違う人でした。 6歳の私は、大きく腫れた赤黒い顔を見て、どうしてこんな顔になるのか、不思議でたまりませんでした。 今でも忘れられません。
 三次駅から汽車に乗って広島駅に着き、外に出てみたら、広島は見渡す限り建物が焼け、町が無くなっており、ビックリしました。 まだ地面が熱いところもありました。 私たちは、我が家の防空壕(ぼうくうごう)の中など、あちこち父を捜し歩きましたが、見つかりません。 その日は、親戚(しんせき)の人が勤めている広島駅近くの警察署の建物の軒下で、地面の上に座って一夜を過ごしました。
 10日の朝早く、そこを出て、鉄砲町の方に向かって歩きました。 黒焦げになった木の根っこを背にして人が休んでいるのを見ると、「あー、あれがお父ちゃんかもわからん」と言って走っていき、顔をのぞいて見ました。 道や広場で休んでいる人を一人ずつ、何人も見て、捜し歩きました。 みんな裸です。 顔だけではなく体中がパンパンにふくれあがって、赤黒くなり、まるでお化けのおすもうさんのようでした。
『赤黒く焼けた死体』
『赤黒く焼けた死体』
制作:桒原太一(くわはら たいち)、若山登美子
所蔵:広島平和記念資料館
 以前から父と母は、何かあったら、牛田(うした)の知人宅へ行こうと約束していたので、行ってみたら、父が避難していました。 父は家で被爆し、頭に大きな柱が落ちてきて、脳が見えるくらいの大けがをしており、頭から白い布を掛けていました。 布の間から目が見えて、「ああ、登美子か」と、私の名前を呼んでくれた声で、父だとはっきりわかりました。 やっと見つけたと思い、ホッとして、とてもうれしかったのを今でも忘れられません。
父を亡くす
 父は頭に大けがをしたけれども、やけどはしていないようでした。 母の姉(私の伯母)が安芸郡矢野町(あきぐん やのちょう)に住んでいて、その伯母が大八車(だいはちぐるま)を借りて迎えに来てくれたので、伯母の家に行って世話になりました。
 母は荷物を運ぶ小さい車に父を乗せて近所の病院に通いました。 父の頭の傷口にウジがわいてくるので、取ってもらっていました。 父は「胸が焼ける、胸が苦しい」と言っていました。 みんなが、「ガスを吸うて、胸がつらいんじゃろうね」と話していました。 その時はわかりませんでしたが、ガスと言われていたのは、実は放射性物質だと知ったのは、ずいぶん後になってからでした。
 私は、9月1日から学校が再開したので、幟町(のぼりちょう)国民学校から田舎の河内の学校に転校し、おじやおばの世話になりました。 9月14日に「お父ちゃんが死んだよ」と、母が妹をおんぶして父の遺骨を持って田舎に戻りました。 父は死ぬ前に母に、「今はまだ死にとうない…登美子らを頼む」と言って死んだそうです。
残留放射能により被爆
 矢野の伯母の家に行って一段落したころ、母が鉄砲町の家の防空壕にもう一度行き、ミルクの缶を持って戻りました。 缶は変形しており、開けると粉ミルクが飴(あめ)のように固まっていて、それを金づちで叩(たた)いて食べました。 「おいしい、おいしい」といって食べたんです。
 その後、河内村の母の実家で生活していたころ、二年生になった私の顔と手足ができものだらけになりました。 母がドクダミ草を煎(せん)じて飲ませてくれたのを覚えています。 いろいろ手を尽くしてくれました。 また、歯茎から出血し始めました。 でも母には歯茎から血が出ることを言えませんでした。 できものができて心配をかけていたので、言えませんでした。 今思うと、父を捜して広島市内を歩いたり、被爆したミルクを食べたりしたので、放射能汚染のせいで体調が悪くなったのだと思います。
 私たち家族はその後、母の実家で10年間世話になり、おかげで食べるものには困らず生活させていただきました。 私が三次高校商業科一年生のころ、母が広島へ出て働き始め、私も二年生から県立広島商業高等学校へ転校しました。 当時は、高校を卒業しても一人親だと就職が難しいと聞いていて不安でしたが、おかげさまで就職でき、6年間勤めました。
 就職試験の時、最後に面接官に「ところで、お父さんを覚えとる?」と声を掛けられ、「ハイ、少ししか覚えてないけれど」と言った瞬間、涙がワッと出てきました。 心の奥では、いつも父を求めていたんだと思います。 思いがけない涙が出て、泣きじゃくりながら家に帰りました。 父がいないさびしさをすごく感じて、悲しくてたまりませんでした。
平和のありがたさ
 私は若いころからずっと貧血と低血圧です。 65歳の時には乳がんの手術をしました。 また、甲状腺(こうじょうせん)も悪く、病院に通っています。
 妹は大腸がんや子宮筋腫(きんしゅ)の手術をしました。
 母は貧血と低血圧でしんどい思いをしながら働き、私たち姉妹を育ててくれました。 母は、私に直接ではないけれど、他の人に「泣いとるヒマはなかった。二人の子供をどうして食べさせていくか、精いっぱいで、泣くヒマなんかなかった」と言っていたと聞きました。 私たちのような苦しく悲しい思いを、今の皆さんには絶対させたくない。 皆さんにお伝えしたいことは、人間が生活していく上で、平和がどんなに大切なものか、両親、兄弟姉妹、おじいさんおばあさん、友だちがいることは、とても幸せなことだということです。 「当たり前」ではありません。
 どうか皆さん、自分の生命を大切にしてください。 友だちの生命も、自分の生命と同じように大切にしてあげてください。 仲良くしていきましょう。 お互いに、話し合い、理解しあっていきましょう。 それが世界平和への出発点だと信じています。
 

プロフィール
〔わかやま とみこ〕
小学校一年生であった 6 歳の時、原爆投下から 3 日後、父を探しに家族と一緒に広島市内へ入り被爆した。
2014年に初めて自身の体験を話したことをきっかけに、2016年から被爆体験講話を行う。

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