1945年(昭和20年)8月6日に原子爆弾が投下され、広島は壊滅しました。
年末までに50人以上のカメラマンが広島を撮影し、2,500枚以上の写真が残されていることをご存知でしょうか。
今回の企画展では、これらの中から76枚の写真と関連の資料を、9つのコーナーで時系列に沿って紹介しています。
○被爆前の広島
○爆心地に立つ
○死の街
○傷を負った人々
○市中へ
○傷
○生活をとりもどす努力
○残る傷あと
○死者を弔う
被爆前の広島
原爆が投下される前の広島は中国地方の中心都市で、軍都や学都の顔を持っていました。
写真や絵はがき、市民が描いた絵には、活気あふれる広島の様子が残されています。
一方で、日々の暮らしの中にも戦争は入り込んできていました。
被爆後の広島
爆心地に立つと、見渡す限りのがれきと、わずかに残った建物だけ。広島は死の街と化しました。
焼けこげた遺体や、臨時の救護所に収容された負傷者たちの様子も写真に記録されています。
広島に投下された原爆から発せられた熱線・爆風・放射線や、被爆直後の大火災などにより多くの人が傷つけられ、1945年(昭和20年)末までに約14万人もの人が亡くなりました。
外傷ややけど、下痢、腹痛などの急性障害は、被爆直後だけでなく、後々まで人々を苦しめました。
生き延びた人々
かろうじて死をまぬがれた人たちは、生きるために焼け跡にバラックを建て、必死に生活をとりもどそうとしていました。
秋には、一杯のビールを求めて並び、映画の上映会に集まる人々の姿もありました。
復興に向かう営みのかたわらで、原爆の傷が癒えることはありませんでした。
病院では治療が続けられ、臨時の火葬場となった学校の校庭には、遺骨が散乱していました。
原爆によって家族や友人を失った人もたくさんいました。
身近な人々の死を悼み、供養塔を建てて弔いました。
傷
原爆による傷そのものに焦点を当てた写真もあります。
その多くは米軍が撮影したもので、長い間米国で保管されていましたが、1973年(昭和48年)に日本に返還されました。
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爆心地・島病院の跡に置かれた、関係者の消息を尋ねる伝言版
1945年(昭和20年)10月
撮影/林重男
被爆翌日の本通り
1945年(昭和20年)8月7日
撮影/ 岸田貢宜 提供/岸田 哲平
立ち飲みビール屋に並ぶ人たち
1945年(昭和20年)10月11〜20日
撮影/菊池 俊吉 提供/菊池 徳子
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