……練兵場の山裾を通って行きますと、東照宮や鶴羽根神社の辺りでは、やけどや負傷した兵隊さんがずらっと並べられていました。
やけどで体が腫れ、軍服の金ボタンは全部はずれていました。
爆風に飛ばされたのか、手と足を開いて座ったままの姿勢で、目をかっと見開き亡くなっている若い兵隊さんもいました。
私は一瞬その人は生きているのかと思いぎょっとしました。
兵隊さんだけでなく、軍馬も原爆で焼かれて、ひょろひょろと歩いていたり、倒れたりしていました。
馬もかわいそうでした。
当時はどの家の前にもコンクリートの防火用水槽があって、水が張ってありましたが、その五〇から六〇センチメートル四方の水槽に三、四人の人が顔を突っ込み、膝をついて亡くなっていました。
おそらく、やけどでのどが渇き、水を飲むために水槽に入り、そのまま力尽きて息絶えたのでしょう。
そういう水槽をたくさん見ました。
電柱はまだくすぶってボッボッボッと燃えていました。
橋のたもとで亡くなっていた小さな子どもは、男の子だったと思うのですが、やけどで体が風船のように膨れていました。
また、防空壕のそばでは5歳くらいの子どもが亡くなっていました。
だれも見てあげる人もなく、何か上に掛ける物もなく、放置されたままの状態で、かわいそうでした。
やけどした人は、皮膚が剝がれ黒くなって、指先からぶらさがり、まるで幽霊のように歩いておられました。
なぜそうなるのか分からなくて、「あれ、どうしたんかしら?」と思いました。……
(原爆死没者追悼平和祈念館)