和文機関紙「平和文化」No.198, 平成30年7月号

被爆体験伝承者から

伊藤正雄(いとう まさお)さん(平成27年度から活動)
 定年退職後、何か社会のお役に立つことをと思っている時、ヒロシマ ピース ボランティアのことを知り、私は被爆者でもあるので、核兵器廃絶のお役に立つならと応募しました。 平和記念資料館の担当者から被爆体験証言者になりませんかと話がありましたが、被爆時は4歳半の子供で、余り記憶もないので証言はできないとお断りしました。 そんな時に広島市の被爆体験伝承者養成事業が始まりました。 これなら私にも出来ると直感し、応募しました。
小学生に伝承講話を行う伊藤さん
小学生に伝承講話を行う伊藤さん
 私は4人の被爆者の伝承者になりました。 最年長の竹岡智佐子(たけおか ちさこ)さん、原爆孤児となられた川本省三(かわもと しょうそう)さん、入市被爆の新井俊一郎(あらい しゅんいちろう)さん、原爆乙女(おとめ)と言われた松原美代子(まつばら みよこ)さんです。
 今回、今年2月に85歳で亡くなられた松原さんを紹介しましょう。
 松原さんは昭和20年4月、憧れの女学校に入学しましたが、授業は殆(ほとん)どなく、来る日も来る日も竹槍(たけやり)を使っての軍事訓練ばかりでした。 運命の日、松原さんたちの学校に建物疎開の作業命令がきました。 作業場所は爆心地から1.5kmの地点でした。 級友の声に誘われてB29の爆音のする方を見た瞬間、吹き飛ばされ気を失ったそうです。 意識が戻った後、様々な悲惨な体験をしながら帰宅するまでの様子を、13枚の絵に描いておられ、絵からも8月6日の体験を学ぶことができます。
 松原さんは、原爆乙女として悲惨な青春を乗り越えて、30歳にして独学で英語を学び、国連やアメリカ、国内外の大学で被爆体験を話すのみならず、核兵器廃絶に向けた平和活動に一生を捧(ささ)げられました。 脳梗塞(こうそく)を患(わずら)って語ることが困難な中でも、インターネットを駆使(くし)して「ヒロシマの心」を伝え、また、私達伝承者にも思いを語り続けられました。 その松原さんが永眠され、まさに被爆体験伝承の真価が問われるような気持ちです。 昨年7月の国連での核兵器禁止条約の採択、12月のICANのノーベル平和賞授賞を見届けた後、お見送りできたことは幸いでした。
 講話では、私は被爆体験をお話しするだけでなく、核兵器廃絶に向けて今後どのような行動を起こすべきかを問いかけています。 例えば、核兵器禁止条約の締結を求める署名運動への誘いかけなどです。  広島市外への伝承者派遣事業で、5月に大阪府泉佐野(いずみさの)市の中学校に行きましたが、修学旅行の事前学習として3年生が対象のところ、全校生徒に聞かせたいと校長先生が発案され、全校生徒に講話を行いました。 次年度以降も是非続けていただきたい事業です。
 資料館では、東館3階のビデオコーナーに、外国人を中心に常に多くの人がいます。 来館者の方には、生の声として伝承講話も聴いていただきたいと思います。
井上京子(いのうえ きょうこ)さん(平成27年度から活動)
 私は3人の被爆体験を伝承しています。
 細川浩史(ほそかわ こうじ)さんは17歳の時に広島逓信(ていしん)局で被爆され、妹の瑤子(ようこ)さんは建物疎開作業現場で被爆して8月6日に亡くなられました。 妹さんの事に関しては細川さんの悲しすぎる思いが深く、家族の絆(きずな)の大切さを教えられました。
被爆体験証言者の中西さん(前列中央)らとともに、似島の慰霊碑を参拝した井上さん(前列右から2番目)
被爆体験証言者の中西さん(前列中央)らとともに、似島(にのしま)の慰霊碑を参拝した井上さん(前列右から2番目)
 中西巖(なかにし いわお)さんは15歳の時に広島陸軍被服支廠(ししょう)で被爆されました。 幸いが多く重なり生かされたことや、被爆後も生き抜いてこられたこと、そして、原爆孤児になった友人がどんな生活を送ってきたのかを話して下さいました。 また、戦前と戦後で命のとらえ方がガラッと変化したと仰っています。
 寺前妙子(てらまえ たえこ)さんは15歳の時に広島中央電話局で被爆されました。 爆心地から540mの近距離で被爆しながら生かされたこと、爆風で左目を失ったこと、生きていくのが嫌になった思いなどを話して下さり、普通に、当たり前のように生かされている命への感謝を教わりました。
 私の父も被爆者でした。 水主町(かこまち)で被爆し、4か月あまり生死をさまよったそうです。 一度きりではありましたが父が話してくれた鮮明な記憶、それを頑(かたく)なに話そうとしなかった父の気持ちなども加え、私が被爆体験伝承者として伝えることで役に立てるならと思い、また、日々感謝しながら活動できればとの思いから、伝承者になりました。
 日頃の活動で一番感じることは、人様の体験と思いを伝えることの難しさです。 私自身の言葉で伝えていいのか、どう伝えるか、伝わるか、試行錯誤(しこうさくご)がついて回ります。 私は人前で話すことが苦手なので講話では緊張感が取れません。 原爆について知識豊富な人を見ると、自分の未熟さを感じます。 しかし、気持ちを込めて話すと、伝わっていると感じるようになりました。 ちょっとの勇気が大切ですね。 子どもたちは掛け値なく、素直に聞いてくれます。 今後も、これが自分の使命と思い、伝える努力をしたいです。 講話を聴いて下さる来館者の方には感謝しかありません。
上田知子(うえだ ともこ)さん(平成27年度から活動)
 私は3人の被爆体験を伝承しています。
 細川浩史(ほそかわ こうじ)さんは17歳の時に広島逓信(ていしん)局で被爆され、妹の瑤子(ようこ)さんは建物疎開作業現場で被爆して8月6日に亡くなられました。 妹さんの事に関しては細川さんの悲しすぎる思いが深く、家族の絆(きずな)の大切さを教えられました。
上田さんの講話の様子
上田さんの講話の様子
 私は以前からNPO法人HRCPで平和記念公園等の碑めぐりのボランティアガイドをしています。 広島市が被爆体験伝承者養成事業を始めたとき、被爆者の話を聴いてさらに勉強し、ヒロシマを伝えたいという思いから応募しました。
 私は中西巖さんの被爆体験を講話でお話ししています。 中西さんは私の叔父と一緒に旅客船で世界を巡るピースボートで被爆体験証言の旅をした知り合いでした。 熱心に継承活動をしておられ、私たち伝承者に惜しみなく貴重な資料をくださり、自らの体験を伝えてくださいました。
 中西さんは15歳の時、爆心地から2.7km、学徒動員先の陸軍被服支廠で被爆されました。 建物にさえぎられ、奇跡的に火傷や怪我は負いませんでした。 水を求めながら飲むこともできずに亡くなった人たち、「死にたくないよ」と言いながら亡くなった女学生、「助けて」と手を差し伸べられても助けてあげることができなかった中学生。 中西さんはたくさんの人たちの助けを求める声を聞き、悲惨な状況で死んでいく人たちを目にしながらも、誰ひとり助けることができなかったと自らの苦しみを話されました。 だからこそ、亡くなった方々の無念の思いを伝えなくてはならない。 人の尊厳を奪い去る核兵器をなくすためにできる限りのことをしなくてはならないと、必死で証言されてきました。 その中西さんの思いを受け継ぎ、これからも私が学んだことを丁寧に伝えていきたいと思います。
 核兵器廃絶をめぐる状況は変わっていきます。 昨年の核兵器禁止条約の採択や、ICANのノーベル平和賞受賞は、世界の人々が被爆者の方々の言葉を自分のこととして捉えた結果だと聞きました。 それが一番大事なのではないでしょうか。 「原爆は過去のこと」、「誰かの身におこった悲惨なこと」ではなく、「核兵器が将来使われるかもしれない」、「使わせないために自分はどう行動すればいいのか」。 無関心でいてはいけないと、話を聴いて下さる方々に伝えていきたいと思っています。

(総 務 課)

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