原爆投下の前後
昭和20年(1945年)8月6日、白島
(はくしま)の家では母33歳、8日で5歳になる私、生後10ヶ月の妹、従兄のお嫁さんになる人、この四人で生活をしていました。
父は戦地にいて留守でした。
午前8時頃、部屋を掃除するので「ちょっとの間、外に出てちょうだい」と従兄のお嫁さんが言ったので、僕は下駄を履き、母も妹を抱いて外に出ました。
8時頃の空は雲がほとんどなく、真夏の直射日光が容赦なく照りつけていました。
僕は日陰を見つけて遊んでいました。
しばらくするとB29爆撃機
(ばくげきき)の重たいプロペラの音が聞こえてきたので「お母ちゃん、飛行機が来よるけえ、家に帰るよ」と声をかけ、走って家に行き、玄関の引き戸に手をかけ閉めようとしたその時、ピカッと光り、左腕に強い痛みと左ほほと踵
(かかと)に軽い痛みを感じました。
すぐに強烈な爆風が吹き、5歳前の小さな身体は吹き飛ばされて、台所にあった井戸の縁に頭をぶつけて気を失ってしまいました。
妹を抱いていた母は、ピカッと光った瞬間、背中に強烈な痛みを感じ、気がつくとブラウスが燃えていたので慌てて脱いだが、ふくらはぎと踵にも火傷をしました。
そんなひどい状態でありながら、息子がいないことに気がつき、倒れた家の柱などを片付けながら探して、気を失っていた僕を助けてくれました。
中之島に避難する
僕の左腕は皮膚が剥
(む)けて垂れ下がった状態で、母の背中は火傷でズルズルになっていました。
とにかく避難しようと、家の中にいて無傷だった従兄のお嫁さんと一緒に土手を登り、長寿園
(ちょうじゅえん)(昭和20年代前半までは桜の名所として賑
(にぎ)わった公園)を抜け、太田川
(おおたがわ)の川岸に出ました。
川の中ほどには中之島
(なかのしま)と呼んでいる島があって、当時水深が浅かったので歩いて渡りました。
川の中に足を入れると、飛び上がるほど踵の火傷が痛かった。
母はもっと火傷がひどかったので、強烈な痛みがあったのではないかと思います。
中之島には大勢の避難者が上がってきて足の踏み場もないような状態になりました。
夕方になり、また川を渡って家に帰りましたが、傾いていて中に入ることができないので防空壕
(ぼうくうごう)で一夜を過ごしました。
母の実家で療養をする
被爆後三日目に母の兄と父の姉の夫が来てくれて、家の中を片付け、鍋釜などと一緒に母と僕、妹をリヤカーに乗せて、白島から広島駅を目指して行きました。
途中、街並みが焼け野原となり遠くまで見渡せて、火事の後の独特の匂いが漂って気持ち悪く、思い出してもぞっとする光景でした。
広島駅に着き、大勢の避難者でごった返す中、やっとの思いで列車に乗り込み、母の実家がある福山市の松永
(まつなが)駅に着きました。
実家は農家で少し高台にあって、屋敷は大きく、私たちは風通しの良い広い座敷で療養を始めました。
母の背中の火傷の匂いがひどく、世話をしてくれる祖父母や伯父は臭い臭いと言っていました。
ハエが母の背中に卵を産み付けたのか、成長してうじ虫になり背中を這
(は)い回るので、ムズムズと痒
(かゆ)くなり、自分では取れないので割り箸
(ばし)でつまんで処理をしてもらっていました。
母は41度の高熱が続き、ある日、深い深い井戸の底に落ちるような感覚で意識を失ったそうです。
この時はまだ三途
(さんず)の川を渡るのは早いということで追い返されたのか、意識が戻りました。
その時、これが「死ぬという事か」と思ったそうです。
僕の左腕の火傷
左腕の皮膚は熱線で焼けただれ、指先まで火傷して指も曲げられない状態でした。
自由に動かせるようにするため、食用油を染み込ませた布を指と指の間にはさむ治療をしてくれましたが、布を剥
(は)がす時には強烈な痛みがあって、いつも治療の時には泣いていました。
その甲斐
(かい)があり今は自由に動かせます。
このように治療をしてくれたことに感謝をしています。
しかし左腕の手の火傷部分がケロイドになり、特に手の甲の肉が盛り上がって手首を動かすことが困難になりました。
特に冬の寒い時期はひび割れが出来、動かすと激痛が走るので辛く、ひび割れに膿
(うみ)が出来て袖口
(そでぐち)がいつも汚れていました。
手首が満足に動かせないことを心配してくれた母が、平成6年(1994年)に被爆者援護法が制定されたのを知り、病院に話をしてくれて皮膚移植をしました。
その結果、現在では痛みを感じることもなく自由に動かせることに喜びを感じています。
妹弘子(ひろこ)の死亡
母に抱かれていた妹は頭の一部に熱線を浴びました。
被爆二日目に医師の回診があり、その時は「この位の火傷でよかったね」と言ってくれたそうです。
確かにその時は元気そうに見えましたが、母は母乳が出ず、粉ミルクもなく、重湯
(おもゆ)も満足にない、ないないづくしの状態で広島から松永までの長旅もあり、衰弱が激しく、8月22日に母の姉の腕の中で息を引き取ったそうです。
療養中の母が娘の死を聞いた時には、火傷で娘の面倒を見てやれなかったこともあり、大声で泣き、涙が止まらなかったそうです。
平和を願う
明治維新(1868年)から1945年8月に原爆が投下されるまでの77年間、日本は諸外国との戦争に明け暮れました。
太平洋戦争では軍人軍属・民間人等を含めて310万人が亡くなっています。
しかし1945年8月から2020年10月までの75年間、戦争をしていません。
これからも未来永劫
(えいごう)戦争をしない国であって欲しいと心から願っています。
原水爆・核兵器は一瞬にして広大な面積を熱線と爆風で焼き尽くし、破壊し尽くし、更に放射能という目に見えないもので何十年もの間、身体を侵し続ける恐ろしい兵器です。
多くの人は原水爆・核兵器がどんなに恐ろしいものかを知らないと思います。
世界中の多くの人たちに危険性を認識してもらう為に、これからもヒロシマから訴え続けていき、核兵器を世界中から無くし、戦争のない平和な世界になることを切望します。
一滴の水は小さくても、たくさん集まれば大河となり、大きな力と流れを生み出します。
この運動を大きく大きくすることが大切です。
私たち被爆者が受けた街の破壊と心身の傷、悲惨な犠牲は広島、長崎で終わりにしたいのです。
プロフィール 〔たきぐち ひでたか〕
1940年、広島市宇品町(うじなまち)で誕生。
その後白島町へ移転し、ここで被爆した。
戦後の復興が進むにつれ、被爆建造物などが街並み整備のために無くなっていく様子を報道で知り、1982年頃より会社の休日を使って被爆樹木や被爆建造物など撮影を始めた。
被爆後75年間は草木も生えないと言われた中で、いち早く芽生えた樹木に広島の人々は勇気と元気をもらった。