本館常設展示は、被爆資料や写真、被爆者が描いた「原爆の絵」など実物資料を中心に被爆の実相を伝えています。
資料は長期間展示すると劣化の恐れがあります。
また、現在も資料館には被爆者や遺族から「亡くなった人の存在と被爆の状況を伝えてほしい」と資料の寄贈があり、その数は増え続けています。
大切な資料を保存し、収蔵資料の活用を図るため、資料館では定期的に展示資料の入替を行っています。
今年資料館では、2月15日から17日の期間で本館常設展示の「8月6日の惨状」、「放射線による被害」、「魂の叫び」の3つのコーナーの資料76点を入れ替え、3月7日から公開しました。
その中で、「魂の叫び」は遺品とあわせて説明文、遺影、亡くなった人や家族の言葉を展示し、一人ひとりの命の重さと家族の悲しみを伝えるコーナーです。
入れ替えた資料には、崇
(そうとく)中学校1年生の浅野綜智
(あさの そうち)さん(当時12歳)の手袋があります。
綜智さんは爆心地から800m離れた八丁堀
(はっちょうぼり)の建物疎開作業現場で被爆しました。
顔や手足に大火傷を負い、翌日、捜しに来た親戚の人に発見されました。
救護にあたっていた軍医の手当てを受け、叔母の家に連れ帰られましたが、その日の夜遅く息を引き取りました。
8月14日の朝、愛媛県大三島
(おおみしま)の実家から父親と祖母が駆けつけた時は、既に遺骨となっていました。
手袋は綜智さんが被爆時に身に着けていたものでした。
また、「魂の叫び」のコーナーには、「市民が描いた原爆の絵」の原画があります。
被爆者が当時の情景を思い起こして描いた絵です。
毎回テーマを決めて絵を選定し、今回は遺体の火葬や瓦の上に置かれた遺骨など死者への振る舞いをテーマとした絵6点に入れ替えました。
絵の中に、仮火葬場へ運ばれる遺体の様子を描いた絵があります。
絵の作者は、親族を捜すため、被爆の翌日に広島市内へ入りました。
爆心地から1,000mの場所で見た情景で、何体もの遺体が大八車
(だいはちぐるま)に乗せられ、運ばれています。
遺体は肉の赤い色のみで表現されています。
遺体には無数の傷があったと考えられますが、作者は、その傷を描くことがあまりに忍びなく、赤い色のみで表現しました。
今後も「8月6日の惨状」、「放射線による被害」、「魂の叫び」コーナーの被爆資料等は1年ごとに、「市民が描いた原爆の絵」の原画は半年ごとに、定期的に入れ替えます。
資料館は、展示する資料1点1点を通して、大切な家族との日常を奪い去る原爆の悲惨さを伝え続けていきます。
(平和記念資料館 学芸課)