戦時下、医師をはじめとする医療関係者は、各種令により戦争への協力を余儀なくされていました。
医師たちは防空法に基づき、空襲の際には救護活動に従事することとされ、アメリカ軍による日本本土空襲が本格化すると、警報発令の際には救護所で待機していました。
しかし、原爆投下により広島市内が壊滅的な被害を受けると、市内にいた医師の91%が罹り 災さいしたとされ、当初計画していた救護活動は困難となりました。
それでも、生き残った医師たちは自らも傷を負いながら被災者の治療にあたりました。
また、宇品
(うじな)にあった陸軍船舶司令部の所属部隊(通称「暁
(あかつき)部隊」)や各地から駆けつけた救護班が救護活動を行ったほか、広島市の周辺地域でも病院や学校などで被災者を受け入れました。
被災者の治療に使用された医薬品が入った「隊医きゅう」
寄贈/眞田寛一(さなだ かんいち)
投下から日が経つにつれ、治療にあたった医師たちは、嘔吐
(おうと)・発熱・下痢など放射線による症状に直面していきます。
始めは投下された爆弾が原爆であることさえわからなかったものの、直後に行われた調査の結果から治療法が検討されていきました。
一方、アメリカでも原爆の人体への影響の調査を企図します。
アメリカと日本の「合同」の形式をとった調査団が編成され、10月から11月にかけて広島で調査が行われ、翌年には報告書がまとめられました。
今回の企画展では、資料館の所蔵資料、当時撮影された写真、医師による記録などから、原爆と医療に関わる事項をたどります。
設備も医薬品も十分でない困難な状況で、被災者の治療と症状の解明に向き合った医師たちの苦闘に触れていただければと思います。
展示構成
1.戦時下の医療体制―医療関係者の戦争動員―
2.原爆投下―混乱のなかの救護活動―
3.徐々に明らかとなる放射線による症状
4.被爆調査団の活動
【お問い合わせ】
平和記念資料館 学芸課/TEL(082)241-4004