和文機関紙「平和文化」No.210, 令和4年10月号
被爆体験記

「父子のわかれ」

―広島原爆5歳10か月の体験―

廣中 正樹

本財団被爆体験証言者
廣中正樹さん

昭和20年8月6日、原爆投下と黒い雨
 私は5歳10か月の時に爆心地から約3.5kmの己斐上(こいうえ)で原爆にあいました。 現在の西区己斐町です。
 8月6日の朝、私は近くの小川で水遊びをしていました。 その時、ピカッと光り、一瞬にして目の前がオレンジ色に染まり、花火がドンというような音が聞こえました。 数秒後、下流の方からものすごいスピードで茶色の爆風が音を立てて私におそいかかりました。 立っていられなくて、後ろに転びました。 近くの家の窓ガラスが割れる音、瓦(かわら)が飛んで割れる音が聞こえました。 私は何かが起きたことはわかりましたが、小さかったので、そのまま橋の下で水遊びを続けました。
 そこへお母さんが「すぐ山の防空壕(ぼうくうごう)へ行きなさい。先に行って待ってるからね!」と呼ぶ声が聞こえました。 川から上がり家に帰ると、玄関や部屋のガラスが割れて散らばり、危なくて入ることができません。 私はその時初めて、大変なことが起きたと感じました。
 あわてて防空壕に向かう途中、山の上の方にみるみる大きくなっていくきのこ雲が見えました。
 防空壕でお母さんと妹に出会えた後、暗くて避難してきた人たちでいっぱいで動くこともできない穴の中に長い間身をひそめ、ものすごく退屈でした。 外ではずっと放射能をふくんだ黒い雨が降っていました。
 
被爆した人たちの悲惨な姿
 やっと小雨になってから家に戻ると、そこには被爆した人がガラスの破片だらけの場所に二人座っており、畳の部屋に二人寝転んでいました。 私たちを見た瞬間、「すいません、水をください」と言われました。 お母さんと私は急いで水をあげました。 4人はとても喜んで、何回も何回も「ありがとう」と言われていました。 4人ともひどいヤケドで、顔・手・胸・足・頭髪は焼けちぢれ、皮膚がひものように垂れ下がって肌は赤く火ぶくれになり、今にも死んでしまいそうに感じました。
 家の前では、ヤケドを負った人が重たそうに足を引きずって次々と歩いて行きました。 その人たちは体を前かがみにして、両手を少し前に出し、両手の皮膚が糸くずのように垂れ下がっていました。 全身がヤケドの状態で、服は上も下も焼けてボロボロでした。
 夕方、空をながめると、きのこ雲が大きくふくらみ、中心から上が宮島(みやじま)方面に長く伸びていました。
 お母さんは顔と手をケガしていました。 朝、出勤するお父さんを見送って、配給をもらいに行くために鏡の前で化粧をしていたときに、原爆の爆風で窓ガラスが割れ、その破片が飛んできたのです。 妹は母のそばにいたのですが、さいわい切り傷程度でした。
 
父の被爆
 少し暗くなった夕方7時ごろ、己斐小学校の先生からお父さんが小学校にいると聞き、お母さんは私と妹の手を引いて、家から500mくらいの小学校に向かいました。 すれ違う被爆者の人はみんな同じ姿だったので、「お父さんですか?」と声をかけながら行きましたが、出会えませんでした。
 小学校の校庭は、ケガをして横たわっている人、家に帰ってこない人を探す人でいっぱいでした。 お母さんは私に、校庭近くの防空壕前で、「お母さんが帰ってくるまで、ここを絶対、動いてはいけません」と言い、妹を抱いて校舎の中に入って行きました。
 しばらくしてお母さんが戻ってきて、お父さんが見つからないので家に帰ろうと言いました。 8時ごろだったと思います。 薄暗い上り坂を、道路に座っている人などに声をかけながら、家に向かいました。 しかしお父さんはいませんでした。 今思うと、このときのお母さんはどんなにか不安な気持ちだったことでしょう。
ローソクの明かりで父の背中のガラスを抜く(作者 廣中正樹)
ローソクの明かりで父の背中のガラスを抜く(作者 廣中正樹)
 8時半ごろに家に帰ると、暗い台所にお父さんが座っていました。 お父さんはかなり弱っていて、頭から背中にヤケドをし、ズボンはボロボロでした。 二階に上がる途中でお父さんは私を呼び「背中に突き刺さっているガラスを抜いてくれ」と言うのです。 ガラスは筋肉に深く突き刺さり、ペンチでも抜けなかったので母に代わってもらいました。
ローソクの明かりで父の背中のガラスを抜く(作者 廣中正樹)
ローソクの明かりで父の背中のガラスを抜く(作者 廣中正樹)
 お父さんは「通勤電車の中でピカドンにあい、熱い熱い熱線と爆風で電車のガラスが吹き飛んで背中に突き刺さった」と話してくれました。 お父さんは、宇品(うじな)の広島鉄道局に通勤途中、原爆が落ちた8時15分に、紙屋町(かみやちょう)付近(原爆ドーム付近)を通っていた電車の中で被爆したのです。 ショックで気を失い、気が付いたときには、電車の中は気を失った人、亡くなっている人などが倒れていたそうです。 お父さんは、川につかりながら長い時間歩き、約3km離れた己斐小学校までたどり着きました。 ものすごい暑さと、市内が次々と火事になっていく中で、ヤケドを負った人たちの逃げる場所は川しかなかったのです。
 
8月7日、父との別れ
 翌8月7日、私が目をさますと、お母さんがお父さんの枕元(まくらもと)で、何かをしゃべりながら、おかゆを食べさせていました。 お父さんはとても辛そうでした。 午後3時か4時ごろ、お母さんが「お父さんが弱って苦しそうにしているので、正樹(まさき)もここに来てお父さんのそばにいなさい」と呼びました。 私は家の軒下の隅にいました。 聞こえていたのですが、そばに行けませんでした。 人前で涙を出すのが、小さいながらも恥ずかしかったのです。 軒下で、悲しくて悲しくて柱に頭を付けてシクシク泣きました。 涙が止まりませんでした。 お父さんと別れることが、こんなに辛くて苦しいものかと感じました。
 お母さんが「お父さんが亡くなったよ」と言い、私はもっと大きな声で泣いてしまいました。 お父さんの年は満39歳でした。 少ししてお父さんのそばに行き、手をにぎりながら、お母さんと一緒に泣きました。 お父さんの顔は苦しそうな顔ではなく、いつもの優しい顔になっていました。
 今思うと、お父さんが亡くなるとき、そばにいたら、最後に何か私に言ってくれたのではなかったでしょうか。 「お母さんを頼む」と言ったのではと思います。 大人になって、お母さんの悲しい気持ちもよくわかります。 お父さんが亡くなった後、己斐上の苅場(かりば)墓地で荼毘(だび)に付し、お母さんと私たち兄妹は、お父さんの実家の福山に8月23日に帰りました。
 
皆さんに伝えたいこと
4歳の時の廣中正樹さん
4歳の時の廣中正樹さん
 私は当時5歳10か月でしたが、あの時の悲惨な状況が頭の中に焼き付いて忘れることができません。 77年たっても、当時を思い浮かべて人に話していると、自然に涙が出てきて悲しくなります。 でも、私の目で見た、頭の中に記憶した悲しみと怒りを、努力して絵や文章に書いて残し、思いを話しています。
4歳の時の廣中正樹さん
4歳の時の廣中正樹さん
 被爆者の人たちは大変な苦労をしながら、今日まで自分の人生をがんばって歩んでいます。 「人の命は地球より重い」という言葉があります。 人の命は量り知れないものなのです。 戦争で原子爆弾により一瞬にして何千何万の方が亡くなられました。 国にとって父は十数万人の内の一人でしょうが、私たち家族にとって父は全てだったのです。 いくらお金を積まれても、父は帰ってきません。 どうか皆さんも、親から頂いた自分の命を大切にしてください。
 最後に皆さんにお願いしたいことがあります。 皆さんは私のような体験をしないでください。 そして皆さんは、過去を学び、未来を考えてください。
 

プロフィール
〔ひろなか まさき〕
1939 年生まれ。 被爆者として、長年、国内外で講話を行い、2022年から広島平和文化センターの被爆体験証言者として活動。 座右の銘「命に感謝 今を生きる」

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