無知の知
ー核兵器の影響を再考する
倉光 静都香
カーネギー国際平和財団 リサーチアナリスト
2024年7月初旬、当時私が勤務していた軍備管理協会が音頭を取り、当時の岸田文雄
(きしだ ふみお)内閣総理大臣宛で、日本の外務政務官、外務省の大使、部長、課長、そして核軍縮・不拡散問題担当の内閣総理大臣補佐官に対して、書簡を送りました。
それは著名な専門家、元大使、アメリカ政府元高官など8名の連名による「唯一の戦争被爆国であり、核軍縮・廃絶の目標を掲げてきた日本こそ、被爆80周年の節目の2025年に、核兵器の使用や製造が及ぼす人間の心身と環境への影響について論じる、ハイレベルな国際会議を開催するべきである」という内容です。
当時私は米国の政治の中心であるワシントンDCで働き始め、核保有国間を中心とした政治的な緊張と比例して高まる核兵器への依存、そしてその流れに抗う非核兵器保有国の外交努力を目の当たりにしていました。
2024年秋の国連総会第一委員会や、日本が議長国を務めた2025年3月の国連安全保障理事会を前に、日本政府にぜひ検討してもらいたい要望として送ったものでしたが、返事をいただくことはありませんでした。
核の時代の幕開けから80年が経過した今日でも、我々人間は、核兵器が人類及び地球にもたらす壊滅的な影響の全容を理解できていません。
核兵器の短期的、長期的、物理的、精神的、社会的影響についての研究課題は山積し、核がもたらす被害についての情報は依然として不確実性に包まれています。
ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾の被害状況の報道や表現は、約7年もの間プレスコードによる厳しい言論・情報統制が敷かれ、封じられました。
世界においても、核開発、核実験が行われた多くの場所はマイノリティの暮らす地域
1であり、被害の矮小化
(わいしょうか)や、依然として続く情報の非公開により、核によって甚大な被害を受けた人々の声は世界に十分に届いていません。
そして、人類が核兵器の及ぼす影響について完全に理解していないにも関わらず、地球の存続の命運は核兵器国の為政者によって握られています。
非人道性に着目し軍縮を目指す「人道的アプローチ」は、核兵器の文脈では、2010年代から注目を集めました。
核軍縮における人道的アプローチは、非人道的な影響を鑑みて、核兵器の存在は非核兵器保有国の安全保障を脅かすものであり、人類の存続のために核廃絶を目指すべきという考えに基づいています。
人道的アプローチの発展による大きな産物は、核兵器禁止条約です。
「核兵器の人道的影響に関する国際会議
2」や国連で行われる会議での「核兵器の人道的結果に関する共同声明」等を経て2017年に国連で採択され、2021年に発効しました。
日本の被爆者だけではなく世界中のグローバルヒバクシャの声を中核に、外交官、政府、市民社会が、核兵器の国境や世代を超える破壊的な影響についての理解と危機意識を深め、一丸となって作った条約です。
2013年オスロ(ノルウェー)で始まった「核兵器の人道的影響に関する国際会議」は、2014年ナヤリット(メキシコ)、同年の2014年、また2022年ウイーン(オーストリア)で過去4回の開催がありました。
核兵器禁止条約への機運を高めたきっかけとなったこの「核兵器の人道的影響に関する国際会議」は元々、核兵器の使用がもたらす悲惨な結果を多角的に検討し、専門家や様々なアクターと共に科学・技術的観点から事実に基づく議論を行うことを主旨としていました。
核兵器禁止条約の締約国会議とは別の会議として、核兵器の影響に関する最新の研究発表や科学的証拠に基づいた議論をする場を設けるメリットは、条約の締約国外からの参加や貢献を促しやすくするという点にあります。
しかし、2023年の核兵器禁止条約の第2回締約国会議以降は、非人道性に関する議論は締約国会議の一部に組み込まれるという流れが続いています。
核兵器禁止条約の支持不支持に関わらず、核の脅威に脅かされ続ける限り、全ての国家、人類はこの核兵器の非人道性に関する議論を続けなければなりません。
岸田元総理は地元広島で開催した2023年G7サミットの際「各国のハイレベルを含め、国際社会に対して被爆の実相をしっかりと伝えていくことは、核軍縮に向けたあらゆる取り組みの原点として重要」であると強調しました。
世界の指導者が核兵器の製造、実験、使用によってもたらされる影響への理解と認識を持ち、将来の世代がなぜ「核戦争に勝者はいない
3」のかを理解できるように国際社会をリードする、日本のリーダーシップに期待が持てる発言でした。
昨年の国連総会決議では、アイルランドとニュージーランドが主導した、「核戦争の影響に関する科学的な研究についての決議案」が採択され、130カ国を超える賛同のもと、約35年ぶりとなる専門家パネルが設置されました。
核保有国であり、核への依存を近年益々高めているフランスやイギリス、アメリカは決議案に反対票を投じる際、核戦争がもたらす壊滅的な影響に関しては「既知であり」新たな理解や研究を深める必要性はないという見解を示しました。
核兵器が人類にどのような影響をもたらすのか。
核兵器使用、核実験再開の危機に瀕する今こそ、被爆の実相について我々人間は何を知っていて、何を知らないのかを再考し、無知を知覚すべき時です。
核兵器のない世界に向けた国際賢人会議も、核軍拡競争の阻止と拡散リスクの低減のために、全ての国が核の危険性に関する啓発の取り組みを支持、促進すべきと提言しています
4。
ヒロシマ・ナガサキを経験した日本には、核兵器の影響について学び、研究し、発信するためのリソースがあり、核兵器の影響について理解を深める国際的な動きを主導していく能力と責任があります。
昨年私が関わった、日本政府へ核兵器の影響についての国際会議開催を求める提言は、節目の年に限らず、意義を持つものであると考えています。
(2025年11月)
- 例に、アルジェリアのサハラ砂漠、カザフスタンのセミパラチンスク、マーシャル諸島のビキニ環礁、アメリカのネバダ州、中国の新疆(しんきょう)ウイグル自治区ロプノール、オーストラリアのマラリンガなど。
- Conference on the Humanitarian Impact of Nuclear Weapons (HINW) と呼ばれる。
- 1985年米国のレーガン大統領、ソ連のゴルバチョフ書記長の共同声明、また2022年1月の米露中仏英5カ国共同声明より。
- 核兵器のない世界に向けた国際賢人会議「核危機の瀬戸際からの脱却:核兵器のない世界に向けた緊急行動」2025年3月。核兵器のない世界に向けた国際賢人会議は、2022年1月に岸田元総理が施政方針演説で立ち上げを表明し、6回の会合を経て提言をまとめた。
〔くらみつ しずか〕
ジェームズマーティン不拡散研究所(CNS)や国連軍縮研究所(UNIDIR)インターン、軍備管理協会(ACA)リサーチアシスタントを経て現職。
ミドルベリー国際大学院にて修士号(不拡散専攻)を取得。広島県出身。