被爆体験記
あの日
宇佐美 節子
本財団被爆体験証言者
私は1941年10月、今の広島市安佐南区
(あさみなみく)祇園
(ぎおん)で生まれました。
私は、母と「お爺
(じい)ちゃん、お婆ちゃん」と呼んでいた母の叔母夫婦と4人で、バス通りに沿った大きな貸家に住んでいました。
そして、母屋にはおばさんとお姉さん、3人のお兄ちゃんがいました。
私はこの家族と兄弟のように育ちました。
あの日 ―― 1945年8月6日。
早朝から鳴っていた空襲警報が解除され、澄み切った青空の真夏日でした。
お爺ちゃんとお母さんも近くの軍需工場、油谷(ゆたに)重工や三菱(みつびし)製機へ行き、母屋のお兄ちゃん達も学徒動員されて建物疎開作業へ。
一番上の一彦(かずひこ)君は今の佐伯区宮内(さえきく みやうち)へ、二番目の正治(まさはる)君は爆心地より0.8キロ離れた八丁堀(はっちょうぼり)方面へ行きました。
正治君が出かける時、玄関先で泣いていた私をおんぶして、あやしてくれました。
お婆ちゃんが「ありがとうね。遅うなるけぇ、早う行きんさい。」と言いました。
午前8時15分 ―― 。
「ピカーッ」と輪郭のない太陽のような光で空が明るくなった瞬間、「ドーン!」と地面が割れるような物凄い音がしました。
一瞬、あたりが「シーン」となりました。
気が付くと、お婆ちゃんは縁側で遊んでいた私を抱えて、押し入れの隅に隠れていました。
辺りはガラスが飛び散り、襖(ふすま)や畳に突き刺さっています。
額にガラスが刺さり、血だらけになって泣き叫ぶ私に、お婆ちゃんはやっと気が付き、ガラスを抜き、転がっていたタバコ入れの中の刻みタバコを貼りつけ、手拭いでしばってくれました。
そのまま庭に掘った防空壕(ぼうくうごう)へ、母屋のおばさんと駆け込みました。
しばらくして、表のバス通りが騒がしくなり、表に出て広島の方を見ると、焼けた紙きれや布、ゴミを含んだ煙が「ワーッ」と押し寄せてきます。
バス通りに出てみると、広島の方から焼けただれ、皮膚がめくれ両手の先で垂れ下がっている人々が次々と歩いてきました。
男性か女性かも分かりません。
髪はボウボウで、みんな水を求め、防火用桶(おけ)の水を飲んでいます。
近くの人が洗面器の水を差し出すと、負傷者を積んだトラックの兵隊さんが「水をやったらいけんで! 早う死ぬるよ!」と叫びます。
藁(わら)の案山子(かかし)が焼けたような人が、防火用桶に寄りかかって死んでいました。
そのうち、夕立のような雨が降ってきました。
近くの熊野
(くまの)神社には避難してきた人でいっぱいです。
亡くなった人を神社の裏の油谷重工の空き地で焼いています。
その嫌な臭いが二、三日、町中に漂いました。
昼過ぎ、一彦君が帰ってきました。
正治君はまだ帰ってきていません。
夜、「今晩は、今晩は、沖
(おき)さーん!」と声がします。
「正治が帰ってきたー!」皆大喜びで出迎えました。
救援隊の人は、正治君の友達も連れてきていました。
裸電球の下で見る二人は、顔は赤く腫れ上がり、目は潰れ、唇はめくれ、服はボロボロ。
胸は焼けただれ、人間ではなく物体のようにしか見えません。
おばさんは「あなた誰? どっちが正治?」と聞きます。
一彦君が「お母さん、よう見んさい。ベルトを。こっち、こっちが正治よ。僕があげたベルトじゃけぇ。」と言いました。
「えー、まさはるかー、まーちゃんかー、どうして、どうしてこうようになったん……」おばさんはその場に泣き崩れました。
朝、元気よく送り出した我が子ではありません。
私をおんぶしてあやしてくれた正治お兄ちゃんではありません。
救援隊の人はもう一人の子供のことを、「この子の家は焼けていたので、身内の人を探してきます。今夜一晩泊めてやってください。あまり水を与えないでください。」と言って帰られました。
二人は一晩中うめき苦しみ、水を欲しがります。
私が水を渡そうとすると、おばさんが「せっちゃん、正治に水をやったら早う死ぬるんよ。」と言いました。
私は「死」ということが分かりませんでした。
正治君は8月7日、亡くなりました。
もう一人のお友達は「おばさん、母はまだ来ませんか?」と細い声で言いながら、正治君の後を追うように亡くなりました。
あの日、約8,200人の学生たちが建物疎開作業に動員され、市内6か所で作業していました。
軍需工場に動員された上級生は市街周辺にあったため多くが難を逃れましたが、建物疎開作業は屋外であったため、中学生・女学生の1、2年生およそ6,300人の命を一挙に奪ってしまいました。
町内から建物疎開作業に出ていた義勇隊の人を合わせると、約18,000人と言われています。
戦争をしない、武器を持たない子供たちに、なんということをしたのでしょう。
原子爆弾は一瞬にして大量破壊・大量殺戮
(さつりく)を無差別に引き起こしたのです。
原子爆弾の被害はこの時だけで終わったのではありません。
核分裂の際に発生するガンマ線や中性子線などの放射線の被害は、人の細胞を破壊して深刻な障害を引き起こします。
今でも人々を苦しめています。
放射線の影響については、今もなお十分に解明されていません。
被爆者は心と体に不安を抱えながら生きています。
被爆者の声を忘れないでください。
あの惨劇を、二度と起こさないでください。
戦争は人の心の奥に巣くう魔性を呼び起こします。
「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから。」―― 原爆死没者慰霊碑に記されています。
日本は戦争をやめ、新しい平和憲法を作り、新しい日本国の建設に努力して80年、戦争をしていません。
この平和が長く続きますように。
被爆国である日本のリーダー、そして世界のリーダーの意識の変革を、心より願います。
〔うさみ せつこ〕
1941 年生まれ、84 歳。
3歳の時、爆心地から4.1km離れた自宅の縁側で遊んでいるときに被爆。