被爆体験記
悲劇の中学1年生
本財団被爆体験証言者 新井 俊一郎
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プロフィール 〔あらい しゅんいちろう〕
1931年、山形県で生まれ埼玉県秩父で育ち、父の転勤に従い8歳で広島に移住。
中学1年生のとき動員出動先の賀茂郡(現在の東広島市)の 八本松駅で原爆の炸裂を目撃し、
猿猴川にかかる東大橋から入市して母校の焼け跡に行き被爆した。
広島大学を卒業してラジオ中国(現在の中国放送)に入社。ドラマやドキュメンタリーなどラジオ・テレビの番組演出を担当した。
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建物強制疎開作業に従事
全国の主要都市が米軍の無差別爆撃で壊滅していた昭和20年春、
入学したばかりの中学1年生に学徒動員令が発せられ、
全員が広島市内を東西に貫く幅100メートルの防火地帯を造るべく強制的に繁華街の家屋を取り壊す疎開作業に出動しました。
広島高等師範学校附属中学校1年生の私たちも加わりました。
大人が鋸で切り倒した建物の廃材搬出が、私たち中学生の役目でした。
農村動員挺身隊として出動
7月上旬、作業督励のため各中学校の代表が県庁に召集されました。
軍と県の幹部が臨席するなか、1人の先生が発言します。
「空襲激化の折から、幼い中学生に炎天下の作業を強いるのは危険極まりない。
わが校は農村に出動して食糧増産に従事する。」
高級将校が怒声を発して威嚇したものの、この発言には誰も反対できなかったとか。
7月20日、若干の留守組を残して私たち1年生80人は教官引率のもと賀茂郡原村(当時)に出動し、働き手が居なくなった農家の支援を開始したのです。
生き残ってしまった
かくて私を含む附属中学校の1年生は、残留者10人を失ったものの被爆を免れ、
他校の1年生は殆どが全滅してしまうという悲運に見舞われることになるのです。
全滅した悲劇の中学1年生とは、実は私たちの小学校時代の級友であり、卒業したのち各々の中学校へと進学して行った仲間たちなのです。
そして私たちは生き残ってしまったのです。
「順番に帰省を許可する」
お寺と神社に分宿した13歳の私たちの仕事は、田圃の草取りが主でした。
「小さな子供なのに可哀そう」と、農家からオムスビを戴くことがありました。
1粒ずつ飯粒を噛み締めながら戴きましたが、白い米粒の味を忘れることは出来ません。
そんなとき教官から「頑張った者から順番に帰省を許す」とのお達しがあり、私は幸運な帰省組の1人に選ばれ、その帰省日が8月6日でありました。
空が光った
広島に帰るべく山陽本線の八本松駅のホームで列車を待っていた8時15分、
突如、ギラッと空が炸裂しました。
とっさに身を伏せて顔を上げた私の眼に、ムクムクと虚空に突き上げる巨大な入道雲が見えました。
やっと乗り込んだ下り列車は次の瀬野駅で運転中止。
下車した私たち5人は猛煙立ち昇る広島方面へと歩き始めたのです。
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生きていて欲しい
爆心地から約3キロメートルの東大橋から広島市に入りました。
狭い木橋の上は、全身が焼け爛れ指先から剥け落ちた皮膚を引きずる被爆者で埋め尽くされており、
その人々の足元から、幻のように2人の幼女が現れたのです。
小学校2年生くらいの姉が3歳ほどの妹の手を引き、風船のように膨らんだ顔には目と口と思しき小さな窪みがあり、微かな声が聞こえました。
「しっかりねっ」と励ます姉の声を残して幼い姉妹は消えて行きました。
生きていて欲しい。見送るしかなかった私の祈りです。
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「消えていった幼い姉妹・・・生きていてほしい」
制作者:中須賀愛美(基町高等学校普通科 創造表現コース2年)、
新井俊一郎(被爆体験証言者)
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母校は消えていた
あくる7日の午後、私は母校があるはずの千田町に辿り着きました。
そこは、赤レンガの文理科大学を残して一面の焼け野原と化していて、救援作業中らしい数人の人影がありました。
その中の母校教官とおぼしき人に私は、「報告書、提出します」と叫んで、出動先の担任教官から預かって来た文書を差し出しました。
後日、母校の焼け跡から級友3人と教官2人の遺体が発見されたと知ります。
命令に忠実な中学1年生の私は任務を果し終えたものの、どこをどう通って自宅へ帰ったのか、全く記憶がありません。
遺言・いま語り残さねば!
いまは100メーター道路と呼ばれている建物疎開跡は、全滅した中学1年生およそ6,000人のお墓です。
その殆どは、生き残った私たちと小学校時代を共に過ごした級友でした。
ゆえに往時を想い返したり経緯を語ることを避け続けた私たちも、
はや齢80を迎える老翁となりました。
ようやく重い口を開き始めた生き残り中学1年生の思いを、どうかご理解ください。これは私たちの遺言なのです。
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